さすがに朝夕は秋の気配。昨夜虫の声が聞こえたような気がしたが。(哲




2010ソスN8ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1782010

 秋立つや耳三角に立ててみる

                           神戸周子

だまだ厳しい残暑ではあるが、流れる雲や木陰の風に秋の気配がしっかり感じられるようになった。顔のなかで三角にするものといえば、目だとばかり思っていたが、掲句は耳を立てるという。慣用句の「目を三角にする」とは激怒する様相のことだが、耳となると同じ三角でも少し様子が違う。どちらにしても実際に変貌するわけではなく、「そんな風であることよ」とイメージさせるものだから、ここはひとつ自由に想像させてもらう。三角に立てた耳とは、頭の上に付く動物の耳を想像し、犬や猫やウサギが、人間には聞こえない物音にじっと耳を傾けている姿が浮かぶ。とすると、動物のようにじっと耳を澄ますことが「耳を三角に立てる」であると判断する。こうして、まだ目に見えぬ秋の声に、じっと耳を傾け、目を凝らし、季節の移ろいに身をゆだねている作者が見えてくる。三角の耳は、秋の風をとらえ、小鳥たちの会話を楽しみ、行ってしまった夏の足音を聞き取っていくことだろう。〈夕ひぐらし髪を梳かれてゐるやうな〉〈盗みたきものに笑くぼとゆすらうめ〉『展翅』(2010)所収。(土肥あき子)


August 1682010

 還暦の子がパソコンの夏期講座

                           有保喜久子

齢化社会を象徴しているような句だ。親の還暦を詠んだ句ならいくらでもありそうだが、子の還暦を題材にした句にははじめて出会った。考えてみれば、いまの女性の平均寿命は九十歳に近いのだから、こういう句があっても不思議ではない理屈だ。他ならぬ私の母も九十二歳なので、子供の還暦どころか古稀にも立ち会ったことになる。そのうちに、親が子供の還暦や古稀を祝うことすら普通になってくるのかもしれない。昔からよく言われてきたことだが、いくつになっても子供は子供……。この句には、そんな親の気持ちが前面に出ている。子供が小さかった頃に夏期講習会に出かけていくのを見守ったまなざしが、六十歳になった子供にもそっくりそのまま向けられていて微笑ましい。いくつになっても、子供の向上心は親には健気と写り、また頼もしく思えるのである。『未来図歳時記』(2009)所載。(清水哲男)


August 1582010

 終戦日妻子入れむと風呂洗ふ

                           秋元不死男

たしが生まれたのは1950年8月。終戦から5年後になります。それでも小さなころから、自分の誕生日の近くになにか特別な記念日があるのだなと意識をしていました。「いつまでもいつも八月十五日」(綾部仁喜)という句にもあるように、いまだに毎年のようにテレビでは、終戦の日に皇居の前にひざまずく人たちの姿が映し出され、昭和天皇の肉声を聞くことになります。終戦の年に生まれた人もすでに65歳、となれば戦争をじかに経験した記憶のある人は、すでに70歳を超えていることになります。しかし、そんな年齢の計算を度外視しても、国としての記憶が、たしかにわたしの中にもしっかりと根付いています。今日の句が詠んでいるのは、終戦日に風呂を洗っている日常のありきたりな図ですが、「妻子をいれむ」の心の向け方が、生きることのかけがえのなさを表現しています。だれかのために何かをしてあげられることの幸福は、だれも奪ってはいけないと、あらためて思うわけです。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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