今日は旧暦七月朔日。七月の異名に「秋初(あきそめ)月」がある。(哲




2010ソスN8ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1082010

 桐の実や子とろ子とろと遊ぶこゑ

                           千田佳代

は天上に向かうような薄紫色の美しい花を付け、その実は巫女が持つ神楽鈴のようなかたちとなる。日盛りには緑陰を、雨が降れば雨宿りを提供してきた桐の樹下は、子どもたちの集合場所でもあっただろう。先日の新聞に今どきの小学生の4人に3人は「缶けり」をしたことがないという記事があった。20代以上の92%が「経験がある」という数字と比べると、あまりの低さに驚くが、周囲を見回してみればたしかに見かけない。理由は「時間がない」などを挙げるが、もはや放課後に集団で遊ぶという形態自体がまれなのだろう。掲句の「子とろ鬼」も、今はほとんど見られない遊びのひとつだろう。子とろ鬼は鬼ごっこの一種で、じゃんけんで鬼を決めたら、他の子どもは前の子の腰に手を回して一列になる。一番前にいる子が親となり、鬼が最後尾の子をつかまえようとするのを、親は両手を広げて阻止をする。親を先頭にした一列は、腰に回した手が離れないように逃げなければならず、足をもつれさせながら、蛇行を重ね逃げていく。太い幹を囲み、「子をとろ、子とろ」とはやしながら子を追う鬼の声が聞こえなくなってから、桐は幾度花を咲かせ、実を付けたことだろう。〈あれで狐か捕はれて襤褸のやう〉〈冬と思ふひとりや椀を拭くときに〉『樹下』(2010)所収。(土肥あき子)


August 0982010

 ダリの絵のごとき街なり残暑なほ

                           熊岡俊子

秋を過ぎても暑いのは例年のことながら、今年の暑さは格別だ。異常と言うべきだろう。だからなるべく外出を控えているが、父の病気のこともあり、いつもの年よりも出かける機会はむしろ多いのかもしれない。自宅近くのバス停まで五分ほど歩くと、もう汗だく。目に汗が流れ込んだりして、あえぎあえぎ目的地まで……。そんな具合だから、ダリの絵を持ち出した掲句の比喩はよくわかります。ダリの絵の、あの物体が解けて滴っているような奇妙な描写が現実味を帯びてくるのです。最近炎暑の街中でこの句を思い出して、なるほどと大いにうなずいたことでしたが、一方で自分の身体も溶けてゆき、どんどん暑さが身にこたえてくるようでまいりました。知らなければよかった佳句ということになるのでしょう(苦笑)。『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


August 0882010

 熱出す子林間学校一日目

                           林 和子

だまだ貧しい時代に学生だった私には、修学旅行以外に旅行などに行く機会はありませんでした。長い夏休みも、だから基本的にはなにもやることもなく、毎日ごろごろしていた記憶があります。それでもどういった加減か、中学一年生のときに一度だけ、林間学校へ行かせてもらったことがあります。今考えれば、親もたくさんの子供を抱えて生活も大変だったろうに、よくそんなお金を出してくれたものだなと、ありがたくも思い出すのです。たった一度の林間学校だから、今でも鮮明に八ヶ岳に登ったことを覚えています。旅行の前の数日間は、待ち遠しくて仕方がなく、どうしてこんなに楽しいことが自分の人生に起こるのだろうと、わくわくしていました。おそらく繊細な感受性の子供であったなら、本日の句のように、そんなときにはなぜか熱などを出して楽しみも台無しになってしまうのでしょうが、生来鈍感なわたしは、幸せをそのまま欠けるところもなく、まるごと受け取ることができたのです。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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