2010N8句

August 0182010

 炎天へ打つて出るべく茶漬飯

                           川崎展宏

れだけ暑い日が続くと、自然と水分をとる機会も多くなり、徐々に胃の働きも弱ってきます。今日の夕飯はいったい何なら口に入るだろうといった具合に、消去法で献立が決まるようになります。そうめんとか冷やし中華なら入るな、と思いつつも、でも昨日もそうだったわけだし、たまにはお米を食べなければ、という思いから頭に浮かぶのは、手の込んだ料理ではなく、たいていおにぎりとかお茶漬け。日本人たるもの、おにぎりやお茶漬けだけは、よっぽどのことがない限りいつだって食べられるのです。本日の句では、暑い盛りの外へ出かける前に、力をつけるために茶碗に口をつけてお茶漬けをかきこんでいる様子を描いています。おそらく汗をだらだらたらしながらの食事と見受けられます。「打って出る」という言葉が、どこか喧嘩か討ち入りにでも出かけるようで、たすきがけでもして食事をしているようなおかしさを、感じさせてくれます。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 0282010

 三伏の白粥に芯ありにけり

                           小野恵美子

語「三伏(さんぷく)」は中国の陰陽五行説に由来する。詳しいことは歳時記などで調べていただきたいが、要するに、夏の暑い盛りの時期(新暦では七月中旬から八月上旬あたり)を言い、「拝啓、三伏の候」などと暑中見舞に使ったりしてきた。句の作者は、このの暑いさなかに病を得ている。食欲もあまりないのだけれど、体力をつけるために何かを食べておかなければならない。そこで粥(かゆ)を炊いてもらって食べたのだが、いささか出来損なっていて芯があったと言うのである。それだけの句だけれど、この句に隠れているのは粥を炊いた人の心持ちで、あまりの暑さに十分に火を使うことをせず、つい調理がぞんざいになってしまった。つまり、病人食にも手抜きをしてしまうほど暑い日ということで、句の作者にも作ってくれた人の気持ちはわかっている。だからそのことに怒るというよりも、むしろ何もかもがどうにもならない暑さのせいだと嘆息しているのである。暑いさなかの熱い粥。それを食べなければならない情けなさには、私にも覚えがある。まだまだ暑い日がつづきます。御身お大切に。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


August 0382010

 対岸は王家の谷や牛冷やす

                           市川栄司

ジプト5句と前書のあるなかの一句。一般に「牛馬冷す」の解釈は「田畑で使役した牛馬を川に引き入れ、全身の汗や汚れを落してやること」であるが、日本大歳時記の飯田龍太による解説はこれに加えた部分がとても素敵なので少し引きたい。「浅い川瀬に引き入れられると、牛も馬もここちよげに目を細める。その全身を飼主がくまなくたんねんに洗ってやる。文字通り、人馬のこころが通うひととき。次第にたそがれていく川明りのなかで、水音だけが鮮やかにひびく。だが近頃は農山村でも、そんな情景はとんと見かけなくなってしまった」。このとんと見かけなくなってしまった光景を、作者はエジプトで見ている。かの国においても牛は重要な動物であり、約3,400年前の壁画にも家畜としての牛が描かれていた。王家の谷とは、エジプトルクソールにあるツタンカーメンを含め60を越える王族たちの墓が連なる場所である。そして、掲句の通り対岸に王家の谷を見はるかすためには、牛はナイル川で冷やされているわけで、日本のひとまたぎできるような小川をイメージした農耕風景とは異なり、途方もなくスケールの大きな「冷し場」である。景色も歴史もまったく違っていながら、一頭の牛を愛おしむ姿は国を越えて、「牛冷す」の本意に叶っているものなのだと深く共感するのである。〈天使みな翼を持てり薔薇芽ぐむ〉〈うすばかげろふむかし女は眉剃りし〉『春落葉』(2010)所収。(土肥あき子)


August 0482010

 秋めくや貝ばかりなる土産店

                           久米正雄

れほど賑わっていた海浜も、秋に入って波は高くなり、客も減ってくる。砂浜を初秋の風が徐々に走り出す。土産店もすっかり客足が途絶えてしまった。どこでも売っているような、子ども相手のありふれた貝細工くらいしか今は残っていない。この土産店は海水浴客相手の、夏場だけの店なのかもしれない。店内は砂埃だけが目立って、もはやあまり商売にならない時季になってしまった。海浜の店で売っているから、貝のおみやげはすぐそこの海で採れた貝であるという、整合性があるように感じられても、たいていはその海であがった貝ではない。各地から集められた貝が画一的に加工され、それを店が仕入れてならべているのだ。だから、自分が遊んで過ごした浜で拾った何気ない貝こそが、記念のおみやげになるわけである。売れ残って店にならぶ貝殻が、いかにももの淋しい秋を呼んでいるような気配。何年か前、秋めいた時季に九十九里浜へ出かけたことがあった。すでに海水浴客はほとんどいなくて、浜茶屋もたたみはじめていた。辛うじてまだ営業している浜茶屋に寄ると、何のことはない、従業員たち数人が暇をもてあまし、商売そっちのけで花札に興じていた。真っ黒い青年が「今度の日曜日あたりにはたたむだよ」と言っていた。「秋めくや売り急ぐものを並べけり」(神谷節子)。掲句の店では、もう「売り急ぐもの」などない。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


August 0582010

 広島や卵食う時口ひらく

                           西東三鬼

句は「広島や卵食ふ時口ひらく」掲句は『続神戸』文中引用ママ。三鬼の『続神戸』には掲句が出来たときの様子が次のように書き綴られている。「仕事が終わって広島で乗り換えて神戸に帰ることになり、私は荒れはてた広島の駅から、一人夜の街の方へ出た。〜中略〜私は路傍の石に腰かけ、うで卵を取り出し、ゆっくりと皮をむく。不意にツルリとなめらかな卵の肌が現われる。白熱一閃、街中の人間の皮膚がズルリとむけた街の一角。暗い暗い夜、風の中で、私はうで卵を食うために、初めて口を開く。−広島や卵食う時口ひらく−という句が頭の中に現れる。」ゆで卵を食べるためひらいた口に三鬼は閃光に焼かれた人達の声なき叫びを感じたのかもしれない。明日は八月六日。原爆投下から65年目の暑い朝が訪れる。『神戸・続神戸・俳愚伝』(1976)所収。(三宅やよい)


August 0682010

 山羊の怪我たのまれ診るや葉鶏頭

                           三嶋隆英

診のあと、「先生、うちの山羊が岩場で肢切りよったんでちょっと診てごしないや」「おいおい、俺は人は診るけんど、山羊は診たことねえな」「同じ生き物でしょうが。ちょこちょこっと頼みますけん」出雲弁ならこんなところか。作者は医師。地方だとこんなこともあるのだろう。僕の場合はちょうど逆、獣医師だった父にお尻にペニシリンを打ってもらった。肺浸潤の自宅療養中にどうしても医者に注射されるのが嫌だと暴れたせいだ。あとで父は、あれは危なかったなと反省しきり。僕は豚用のビタミン剤も舐めたことがある。自慢にはならないけど。『自註現代俳句シリーズ・三嶋隆英集』(1996)所収。(今井 聖)


August 0782010

 みんみんを仰げる人の背中かな

                           酒井土子

らしい夏がないまま立秋を迎えた昨年と違い、今年はいやというほど真夏を実感。まだまだ暑い東京だけれど、八月に入ってからは朝から空がすっきり青い。そこに、ほわっと軽そうな雲の群が静かに流れて行くのを、ここ数日夏期講習の合間に9階の教室の窓から眺めている。空から少しづつ秋へ動いているのかもしれない。勤め先のある千代田区は、みんみん蝉が目立って多い。同じ東京でも家の近くは、にいにい蝉と油蝉が主流。時に耳鳴りのようにべったり聞こえるそれらの蝉と違い、みんみん蝉は一匹が主張して鳴くので、蝉の声に立ち止まって思わず木を見上げる、というのもみんみん蝉だから。緑蔭に立つその人の背中を少し離れて見ている作者。そこに同じ郷愁が通い合っているようにも感じられる。『神送り』(1983)所収。(今井肖子)


August 0882010

 熱出す子林間学校一日目

                           林 和子

だまだ貧しい時代に学生だった私には、修学旅行以外に旅行などに行く機会はありませんでした。長い夏休みも、だから基本的にはなにもやることもなく、毎日ごろごろしていた記憶があります。それでもどういった加減か、中学一年生のときに一度だけ、林間学校へ行かせてもらったことがあります。今考えれば、親もたくさんの子供を抱えて生活も大変だったろうに、よくそんなお金を出してくれたものだなと、ありがたくも思い出すのです。たった一度の林間学校だから、今でも鮮明に八ヶ岳に登ったことを覚えています。旅行の前の数日間は、待ち遠しくて仕方がなく、どうしてこんなに楽しいことが自分の人生に起こるのだろうと、わくわくしていました。おそらく繊細な感受性の子供であったなら、本日の句のように、そんなときにはなぜか熱などを出して楽しみも台無しになってしまうのでしょうが、生来鈍感なわたしは、幸せをそのまま欠けるところもなく、まるごと受け取ることができたのです。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 0982010

 ダリの絵のごとき街なり残暑なほ

                           熊岡俊子

秋を過ぎても暑いのは例年のことながら、今年の暑さは格別だ。異常と言うべきだろう。だからなるべく外出を控えているが、父の病気のこともあり、いつもの年よりも出かける機会はむしろ多いのかもしれない。自宅近くのバス停まで五分ほど歩くと、もう汗だく。目に汗が流れ込んだりして、あえぎあえぎ目的地まで……。そんな具合だから、ダリの絵を持ち出した掲句の比喩はよくわかります。ダリの絵の、あの物体が解けて滴っているような奇妙な描写が現実味を帯びてくるのです。最近炎暑の街中でこの句を思い出して、なるほどと大いにうなずいたことでしたが、一方で自分の身体も溶けてゆき、どんどん暑さが身にこたえてくるようでまいりました。知らなければよかった佳句ということになるのでしょう(苦笑)。『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


August 1082010

 桐の実や子とろ子とろと遊ぶこゑ

                           千田佳代

は天上に向かうような薄紫色の美しい花を付け、その実は巫女が持つ神楽鈴のようなかたちとなる。日盛りには緑陰を、雨が降れば雨宿りを提供してきた桐の樹下は、子どもたちの集合場所でもあっただろう。先日の新聞に今どきの小学生の4人に3人は「缶けり」をしたことがないという記事があった。20代以上の92%が「経験がある」という数字と比べると、あまりの低さに驚くが、周囲を見回してみればたしかに見かけない。理由は「時間がない」などを挙げるが、もはや放課後に集団で遊ぶという形態自体がまれなのだろう。掲句の「子とろ鬼」も、今はほとんど見られない遊びのひとつだろう。子とろ鬼は鬼ごっこの一種で、じゃんけんで鬼を決めたら、他の子どもは前の子の腰に手を回して一列になる。一番前にいる子が親となり、鬼が最後尾の子をつかまえようとするのを、親は両手を広げて阻止をする。親を先頭にした一列は、腰に回した手が離れないように逃げなければならず、足をもつれさせながら、蛇行を重ね逃げていく。太い幹を囲み、「子をとろ、子とろ」とはやしながら子を追う鬼の声が聞こえなくなってから、桐は幾度花を咲かせ、実を付けたことだろう。〈あれで狐か捕はれて襤褸のやう〉〈冬と思ふひとりや椀を拭くときに〉『樹下』(2010)所収。(土肥あき子)


August 1182010

 秋風や拭き細りたる格子窓

                           吉屋信子

年のように猛暑がつづくと、一刻も早く秋風にご登場願いたくなる。同じ秋風でも、秋の初めに吹く風と、晩秋に吹く風では涼しさ寒さ、その風情も当然ちがってくる。今や格子窓などは古い家屋や町並みでなければ、なかなかお目にかかれない。掃除が行き届き、ていねいに拭きこまれた格子は、一段と細く涼しげに感じられる。そこを秋風が、心地良さそうに吹きぬけて行くのであろう。もともと細いはずの格子を「細りたる」と詠んだことで、いっそう細く感じられ、涼味が増した。格子窓がきりっとして清潔に感じられるばかりでなく、その家、その町並みまでもがきりっとしたものとして、イメージを鮮明に広げてくれる句である。女性作家ならではのこまやかな視線が発揮されている。信子には「チンドン屋吹かれ浮かれて初嵐」という初秋の句もある。また、よく知られている芭蕉の「塚も動け我が泣く声は秋の風」は、いかにも芭蕉らしい句境であり、虚子の「秋風や眼中のもの皆俳句」も、いかにも虚子らしく強引な句である。「秋風」というもの、詠む人の持ち味をどこかしら引き出す季語なのかもしれない。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


August 1282010

 卓袱台におきて宿題法師蝉

                           足立和信

師蝉が鳴きはじめると夏休みも後半にさしかかる。ツクツクホーシ、ツクツクホーシと、特徴ある声に後回しにしてきた宿題に苦しめられたむかしを思い出す。掲句の子供は怠け者の私と違って朝食を終えたあと、きれいに拭きあげた卓袱台に夏休みの宿題帳をひろげるのを日課にしていたのかもしれない。涼しいうちに宿題を済ませると午後からは虫取りやプールに、いの一番に駆けつけたが、もう宿題の仕上げに精を出さないといけない時期。朝のうちから鳴きだしたつくつく法師にせかされるように問題を解いているのだろう。ちなみにこの頃の小学校では昔に比べだいぶ宿題が少なくなったと聞くが、そうだとすると掲句の情景なども卓袱台もろとも生活から消えてしまったかもしれない。『初島』(2010)所収。(三宅やよい)


August 1382010

 懸巣飛び老いし伊昔紅踊るなり

                           水原秋桜子

昔紅(いせきこう)は「馬酔木」の俳人で「雁坂」主宰。兜太の父。京都府立医専出の医師で独協中学では秋桜子と同級。地元秩父で廃れかけていた秩父音頭を埼玉を代表する民謡として再生復活させたのも伊昔紅の功績である。この俳人のエッセー『雁坂随想』が長男兜太や二男千侍(せんじ)らの手によって刊行されているが、これがものすごい代物。あまりの破天荒に抱腹絶倒というより唖然として空いた口がふさがらない。例えば「芳草記」と題した文章は、野糞について自分の体験談が延々と語られる。「有名な《夏草やつはものどもが夢のあと》の夏草の代りに《夏クソ》を置き換へてみても結構筋が通る。》」この調子である。他にエロ話も随所に出てくる。それらきわどい話が混然として、全体としては秩父の風土と人間に対する愛情に満ちた一巻となっている。まさに兜太の原型を見る思い。この句、秋桜子の同級生をみつめる眼が温かい。秩父山中を飛ぶ鳥や秩父音頭も何気なく盛られている。こういうのを本物の挨拶句というのだろう。『雁坂随想』(1994)所収。(今井 聖)


August 1482010

 魚減りし海へ花火を打ちに打つ

                           沢木欣一

の句は、春陽堂の俳句文庫『沢木欣一』(1991)に、写真と共に掲載されている。彼方にうすく富士の影を置き、切り立った断崖に波が打ち寄せるモノクロームの写真、おそらく伊豆の西海岸だろう。伊豆の花火というと、熱海の海上花火大会。特に目立った演出はないのだが、広い熱海湾ならではの、どーんとお腹に響く単純な打ち上げ花火を、本当にこれでもかというほど連発するその素朴な迫力が好もしい。まさに、打ちに打つ、なのだが、こう詠まれると、そのひたすらな音と光が果てた後、どこまでも続く暗い海の、寂寥感を越えた静けさが思われる。盆行事に通じるという花火、鎮魂の意もこめられているというが、魚の減った海はまた多くの御霊の眠る海でもある。(今井肖子)


August 1582010

 終戦日妻子入れむと風呂洗ふ

                           秋元不死男

たしが生まれたのは1950年8月。終戦から5年後になります。それでも小さなころから、自分の誕生日の近くになにか特別な記念日があるのだなと意識をしていました。「いつまでもいつも八月十五日」(綾部仁喜)という句にもあるように、いまだに毎年のようにテレビでは、終戦の日に皇居の前にひざまずく人たちの姿が映し出され、昭和天皇の肉声を聞くことになります。終戦の年に生まれた人もすでに65歳、となれば戦争をじかに経験した記憶のある人は、すでに70歳を超えていることになります。しかし、そんな年齢の計算を度外視しても、国としての記憶が、たしかにわたしの中にもしっかりと根付いています。今日の句が詠んでいるのは、終戦日に風呂を洗っている日常のありきたりな図ですが、「妻子をいれむ」の心の向け方が、生きることのかけがえのなさを表現しています。だれかのために何かをしてあげられることの幸福は、だれも奪ってはいけないと、あらためて思うわけです。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 1682010

 還暦の子がパソコンの夏期講座

                           有保喜久子

齢化社会を象徴しているような句だ。親の還暦を詠んだ句ならいくらでもありそうだが、子の還暦を題材にした句にははじめて出会った。考えてみれば、いまの女性の平均寿命は九十歳に近いのだから、こういう句があっても不思議ではない理屈だ。他ならぬ私の母も九十二歳なので、子供の還暦どころか古稀にも立ち会ったことになる。そのうちに、親が子供の還暦や古稀を祝うことすら普通になってくるのかもしれない。昔からよく言われてきたことだが、いくつになっても子供は子供……。この句には、そんな親の気持ちが前面に出ている。子供が小さかった頃に夏期講習会に出かけていくのを見守ったまなざしが、六十歳になった子供にもそっくりそのまま向けられていて微笑ましい。いくつになっても、子供の向上心は親には健気と写り、また頼もしく思えるのである。『未来図歳時記』(2009)所載。(清水哲男)


August 1782010

 秋立つや耳三角に立ててみる

                           神戸周子

だまだ厳しい残暑ではあるが、流れる雲や木陰の風に秋の気配がしっかり感じられるようになった。顔のなかで三角にするものといえば、目だとばかり思っていたが、掲句は耳を立てるという。慣用句の「目を三角にする」とは激怒する様相のことだが、耳となると同じ三角でも少し様子が違う。どちらにしても実際に変貌するわけではなく、「そんな風であることよ」とイメージさせるものだから、ここはひとつ自由に想像させてもらう。三角に立てた耳とは、頭の上に付く動物の耳を想像し、犬や猫やウサギが、人間には聞こえない物音にじっと耳を傾けている姿が浮かぶ。とすると、動物のようにじっと耳を澄ますことが「耳を三角に立てる」であると判断する。こうして、まだ目に見えぬ秋の声に、じっと耳を傾け、目を凝らし、季節の移ろいに身をゆだねている作者が見えてくる。三角の耳は、秋の風をとらえ、小鳥たちの会話を楽しみ、行ってしまった夏の足音を聞き取っていくことだろう。〈夕ひぐらし髪を梳かれてゐるやうな〉〈盗みたきものに笑くぼとゆすらうめ〉『展翅』(2010)所収。(土肥あき子)


August 1882010

 あさがおはむらさきがいいな水をやる

                           瑛 菜

者は小学一年生の女の子で、俳人・大高翔さんのお嬢さん。朝顔の花には赤、ピンク、白、藍……いろいろあるし、紫もある。私の近所の家の垣根で、朝顔が毎年みごとな紫の花をたくさん咲かせてくれる。そこを通るたびにしばし見とれてしまう。朝顔の紫は品位があって優雅。奥行きのある、とてもいい色だと思う。小学一年生の女の子だったら、赤とかピンクの花を「いいな」と詠みそうな気がするけれど、「むらさきがいい」というのはオトナっぽい感受性だなあ、と感心した。瑛菜さんはおマセな子なのだろうか? きっと毎朝、朝顔に水をやることが日課になっているのだろう。期待に応えて朝顔もがんばってみごとな花を咲かせる。「いいな」の「な」は字余りだが、この一字が加わったことによって気持ちがはじけ、可愛さが増した。無垢な気持ちで一所懸命水をあげている姿が見えるようである。さて、今朝は花がいくつ咲いたのだろうか? でも、あんなに鮮やかに咲いた朝顔も、暑い昼には見る影もなくしぼんでしまう儚さ。掲句は大高翔が、今春まとめた『親子で楽しむ こども俳句塾』という本を瑛菜さんが読み、それを契機にして作った一句だという。同書には「親子ペア部門」があって、こどもと親の句がペアでならんでいるらしい。掲句に対応して母親の翔さんは「朝顔を気にして始まる子の一日」という句を作っている。「朝日新聞」2010年8月8日収載。(八木忠栄)


August 1982010

 あれは夢これはよくある猫じやらし

                           小林苑を

こじやらしは子供のときからおなじみの草。愛嬌のある名前がかわいらしい。「あれは」「これは」という対比で夢と現実との距離感を表現している。夢は昨晩見た夢とも今まで自分が胸に抱き続けてきた希望のようなものとも考えられるけど、あれは夢、という呟きに遠く消え去ったものへのあきらめが感じられる。そんな頼りない思いから足元にあるねこじゃらしにふっと目がとまったとき淡く消えてしまった夢のはかなさが、より強く感じられたのだろう。かすかに風にそよぐねこじゃらしを「これはよくある」とぞんざいに扱っているようで、普段の日常への親しみをこの呼びかけに滲ませている。道端に線路際に、どんなところにも「よくある」猫じゃらしはロマンチックじゃないかもしれないけど、いつ見ても「ある」安心感がある。これから涼しくなるにつれ揺れる尻尾は金色に染まり秋の深まりを感じさせてくれるだろう。『点る』(2010)所収。(三宅やよい)


August 2082010

 朝顔を数えきれずに 立ち去りぬ

                           伊丹三樹彦

寿記念出版と帯に記された24番目の句集に所収の作品。作者は昭和12年に日野草城に師事し、31年に草城逝去のあと「青玄」の後継主宰になり、それ以降、一句中の随意の箇所に一マスの空きを入れる「分かち書き」を提唱実践して今日に至る。その普及のために全国行脚をしていた40年頃、鳥取県米子市を作者が訪れた折、当時米子にいた僕は歓迎句会に出席したのを覚えている。高校生だった僕は初めて「中央俳人」というのを目にしたのだった。爾来一貫して「分かち書き」を実践。現代の日常の中にも俳句のリリシズムが存することを示してきた功績は大きい。この句、「立ち去りぬ」が現実であって象徴性も持つ。どこか禅問答のような趣きも感じられるのである。『続続知見』(2010)所収。(今井 聖)


August 2182010

 白萩の一叢号泣の代り

                           恩田侑布子

元の『新日本大歳時記』(1999・講談社)の「萩」の項に、「日本人の自然観には、見る側の感情を仮託するものが、色濃く投影している」(高橋治)とある。そして、萩は多くの詩人たちに様々な感情を仮託されるものとして愛されてきた、とも。この作者の同じ句集に〈どこからか来てひとりづつ萩あかり〉という句があるが、揺れ咲いて散りこぼれる萩の風情を感じさせる一句と思う。それに比べて掲出句の、号泣、には驚かされ、大声を上げて泣くほどの悲しみがあったのか、と思ったが、だんだんそうではない気がしてきた。あふれるように光る一叢の白萩と対峙した作者は、一瞬にして白萩の存在感をつかみ取る。それは、感情の仮託、を越えて、まるで白萩とひとつになってしまったかのようだ。この号泣には、喜怒哀楽とは別のほとばしりが感じられる。原句は一叢(ひとむら)にルビ。『空塵秘抄』(2008)所収。(今井肖子)


August 2282010

 早口な介護士が来て秋暑し

                           芦田喜美子

るほど、こんな情景も句になるのだなと、感心してしまいました。介護士が来たのだからこの家には病人か老人がいるわけです。畳敷きの狭い部屋には、背中の持ち上がるベッドが置いてあります。秋とはいえ暑い日が続いている間は、部屋の中にはけだるい空気が漂い、家族の話す言葉も静かでゆったりしたものになっています。そんなところにいきなり、外のにおいを全身に身につけて、威勢良く部屋に上がりこんで若い介護士が来たのでしょう。次から次へてきぱきと手順を説明する声は早くて大きく、日本語なのに、その意味をとらえることができません。おそらく病人とは対極にあるようなこの元気のよさは、住んでいるものだけではなく、部屋全体にとっての驚きであるわけです。そういえば、老いた母を病院に付き添ったときに、お医者さんの前で、にわかに自分の年齢や健康が気恥ずかしくなる感覚を持つのは、なぜなのでしょうか。つね日ごろは、仕事や人事のことであれこれ悩んでいる身も、親のそばに立つと、単に健康で、単純な生き物に自分が感じられてくるのです。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 2382010

 校歌まだ歌えるふしぎ秋夕焼

                           渡邊禎子

れからの季節。大気が澄んでくるので、夕焼けもいっそう美しくなってくる。眺める気持ちも爽やかなので、作者は思わず歌をくちずさんでいたのだろう。いわゆる鼻歌に近い歌い方だ。しかし、気がつけばそれは何故か校歌だった。作者の年齢はわからないけれど、若い人ではないはずだ。もうずいぶん昔に習い覚えた校歌が、どうして自然に口をついて出てきたのだろうか。大人になってからは、ほとんど忘れていた歌である。「本当にふしぎだなあ」と、作者は首をかしげている。それだけの句だが、作者の気持ちの澄んだ爽やかさがよく伝わってくる。誰にでも起きることなのだろうが、気分の良いときに不意に出てくるメロディーや歌詞は、たしかに思いがけないものであることが多いようだ。このあたりの精神作用は、どこか心の深いところで必然性につながっているとも思うのだけれど、よくわからない。そう言えば、若い頃に「鼻歌論」をどこかに書いた記憶がある。何をどう書いたのか。この句を読んだときに思い出そうとしたが、手がかりがなくて思い出せなかったのは残念だ。『新版・俳句歳時記』(雄山閣出版・2001)所載。(清水哲男)


August 2482010

 八月のしずかな朝の出来事よ

                           鳴戸奈菜

本人にとって8月の持つ背景は深く重い。上五に置かれた「八月」の文字は、次の言葉を待つわずかな間にも胸を騒がせ、しくと痛ませる効果を持ってしまう。先の戦争がことに大きな影を落していることは確かだが、そこにとらわれ、身動きできなくなっているのではないかと、世界の8月の出来事を見渡してみた。すると、西暦79年の本日、ポンペイでは朝から不気味な地鳴りが続き、昼頃ヴェスヴィオ火山の大噴火によって消滅した日であった。この時節が持つやりきれなさと屈託は、もしかしたら全人類、世界的に共通しているのかもしれない。作品は〈山笑うきっと大きな喉仏〉〈あのおんな大の苦手と青大将〉の持ち前の明るくユニークな作品にはさまれ、饒舌のなかにおかれた静寂の一点でもあるように、ゆるぎない光りを放っている。俳誌「らん」(2010年・季刊「らん」創刊50号記念特別号)所載。(土肥あき子)


August 2582010

 秋風やうけ心よき旅衣

                           平賀源内

夕、そろそろ秋風の涼が感じられる…… そんな時季になってほしい。特に今年のように猛暑がつづいた後には、何よりも秋風を待ちこがれていた人も多いはず。一息入れて旅衣も新調して出発する身に、秋風は今さらのようにさわやかに快く感じられるのであろう。「うけ心」とはそういう心地を意味している。「秋風」と言っても、ここでは心地よさが感じられる初秋の頃の風である。汗だくになって日陰や涼を求めて動いていた人々の夏が、ウソのように感じられてくる日々。秋も深まった頃の風だと、ニュアンスはだいぶ違ってくる。よく知られているように、十八世紀にエレキテルばかりでなく幅広いジャンルで活躍したスーパースター源内は、ハイティーンの頃から二十年余俳諧にもひたり、俳紀行『有馬紀行』を著した。俳号は李山。「詩歌は屁の如し」という有名な言葉を残しているが、源内のようなマルチな“巨人”にとって、俳句をひねることなどまさしく屁をひるようなものであったかもしれない。いや、そうではなかったとしても、「屁の如し」と言い切るところに、源内らしさが窺われるというものである。他に「湯上りや世界の夏の先走り」という源内らしい句がよく知られている。磯辺勝氏はこう書く。「源内の意識のうえでの俳諧よりも、彼の文事、ひいては生き方そのものに、彼の本当の俳諧が露呈している」。磯辺勝『巨人たちの俳句』(2010)所載。(八木忠栄)


August 2682010

 雀噴く百才王の破顔より

                           摂津幸彦

頃の百才は暗い話題が多いが、これだけの年月を生き抜くのは簡単ではない。長寿の記録だけが残り当人が行方知れずであったり、死を隠されていたりというのは寂しすぎる。身分制度が厳しく着るもの、食べるもの、髪型まで制限されていた江戸時代であってさえ、百才を越した老人はそんな取り決めごとは無視してよく、農民であっても武士へ文句が言えたと白土三平の『カムイ伝』で読んだことがある。百までたどりつけば人間を超越した存在になるのだから何をしても天下御免の「百才王」というわけだろう。そうした老人が皺くちゃの顔をくずして破顔一笑するならば、その僥倖を人に分け与えるかのように沢山の雀が噴き出すとは、なんて豪勢な光景だろう。雀たちの可愛く元気なありさまを百才王の笑顔に寄せたところに愛情を感じる。『摂津幸彦全句集』(1997)所収。(三宅やよい)


August 2782010

 ヴァギナの中の龍旱星

                           高野ムツオ

にはドラゴンとルビがふってある。肉体の器官の呼称でヴァギナの中に龍またはドラゴンの名が入る場所、またはそれと喩えられる箇所があるかどうかの知識が僕にないので、おそらくこれは作者の想念であろうと判断する。女体は人間を生み出す源として原初の時代から崇められてきた。作者の思念は、自らの立つ場所つまり大地と、自らを産んだ女体やヴァギナを表現の原点として意思的に捉えている。同じ句集にある「月光に稲穂は一穂ずつ女体」「祖母の陰百年経てば百日紅」(陰はほと、すなわち女陰)なども同様の思念の上にある。膣の中の深遠なる闇の中に一匹の龍が棲んでいる。すなわち命の発生をつかさどる神のごときである。旱星はみちのくの荒涼たる風土を象徴している。すなわちこれも神のごとし。身体の内側と外側に神が棲んでいて両者と交流しながら「私」が存在する。新興俳句の「モダン」が現代詩の「モダン」への憧憬から出発し、日本の現代詩の「モダン」が西洋詩の西洋的な風情に根を置いたところから出発したことを思えば、佐藤鬼房さんを経て作者につながる「モダン」がそういう「反省」の上に立って日本的土着のアニミズムと同化しようとしたことは俳句にとって的確な選択であったように僕には思える。『雲雀の血』(1996)所収。(今井 聖)


August 2882010

 ひんやりと肌に知りけり島の秋

                           近藤みどり

さに疲れた身には、見た目も音もほっとする言葉、ひんやり。この句は、『ハワイ歳時記 元山玉萩編』(1970・博文堂)にある。海風にいち早く秋を感じるその肌は、ほぼ一年中風と太陽に晒されているわけで、ふと頬や首筋にその気配を感じるというのではなく、全身で秋を知るのだろう。今月半ば、ハワイのマウイ島で、マウイ在住歴2年から50年までの方々と句座を囲む機会に恵まれた。意外に涼しかったホノルルから飛行機で30分、空港に降り立った途端、全身を包んだ風はまぎれもなく秋の匂いがした。「ユーカリ林ももう秋です」「このところ海の色が変わってきました」など、皆さん四季を感じつつ、大きな自然と故郷の言葉を大切に詠んでおられたのが印象深い。表紙に「Hawaii Poem Calendar」とも書かれている島の歳時記、一年中空が美しく毎晩のように星が降るからだろう、「天高し」「流れ星」は載っていない。(今井肖子)


August 2982010

 サイロより人が首出し秋晴るる

                           木村凍邨

んどうの形の建物の、高いところに単純な窓がくりぬかれていて、そこから人が首を出しているというのです。おそらくその人は、秋に収穫した農産物か、あるいは家畜の飼料を収蔵する作業でもしていたのでしょう。この句を読んでいると、理屈ぬきにすがすがしい気持ちになります。その理由はおそらく、遠くへ放り投げられた視線にあるのではないかと思います。作者はあくまでもこちら側にいて、詠われている対象は適度な距離と、適度な高さのところ置かれています。まさに、対象に近づきすぎるなという、創作の基本を思い出させてもくれます。サイロの中は真新しい植物の匂いに満ち、むせ返るような命の熱に、思わず外の空気を吸いたくなったのでしょう。確認するまでもなく、秋の空は見事に晴れ、そのかけらがきらきらと、窓から入り込んで来ているのでしょうか。『合本 俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


August 3082010

 動物園の汽車ではじまる流離の秋

                           境田静代

い子供といっしょに、動物園の汽車に乗ったのだろう。まだ秋とは名ばかりの暑い日盛りのなかだ。乗っている子供たちはみな無邪気な歓声をあげたりしていて、騒々しくもほほ笑ましい。ガタゴトと揺られている作者の目には、それでも園内に注ぐ日差しに、どことなく真夏のころとは違った趣が感じられ、本格的な秋も遠くはないことを告げられているように写ってくる。やがて、徐々に寂しい季節がやってくるのだ。これを作者は「流離の秋」と表現することにより、季節と人生双方の比喩としたのである。こんなにも楽しい時期はやがて過ぎ去ってしまい、さすらいにも似た困難で長い時間が私たちのところにも訪れてくるのだろう。類想句は探せばありそうだが、動物園の汽車から季節のうつろいを想い人生の行く手を想ったところに、作者のセンスの良さが光っている。さらば、夏の光りよ。そんな感じのほど良いセンチメンタリズムが心地よい。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


August 3182010

 骨壺をはみだす骨やきりぎりす

                           杉山久子

月始めに亡くなった叔母はユーモアのある女性で、遊びに行くたびに飼っていた文鳥の会話をおもしろおかしく通訳してくれ、幼いわたしは大人になれば難しい漢字が読めるように鳥の言葉がわかるようになるのだと信じていたほどだった。70歳になったばかりだったが、40代からリウマチで苦しんだせいか、火葬された骨は骨壺をじゅうぶんに余らせて収まった。しかし掲句は、はみだすほどであったという。それは、厳粛な場所のなかでどうにも居心地悪く存在し、まさか茶筒を均らすようにトントンとするわけにもいかぬだろうし、一体どうするのだろうという不安を骨壺を囲む全員に与えていたことだろう。俳人としては、死ときりぎりすといえば思わず芭蕉の〈むざんなや冑の下のきりぎりす〉を重ねがちだが、ここは張りつめた緊張のなかで、「りりり」に濁点を打ったようなきりぎりすの鳴き声によって、目の前にある骨と、自身のなかに紡ぐ故人の姿との距離に唐突に気づかされた感覚が生じた。「はみだす」という即物的な言葉で、情念から切り離し、骨を骨としてあっけらかんと見せている。〈かほ洗ふ水の凹凸揚羽くる〉〈一島に星あふれたる踊かな〉『鳥と歩く』(2010)所収。(土肥あき子)




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