July 252010
まつすぐに行けと片陰ここで尽く
鷹羽狩行
片陰というのは、夏の午後に家並みなどの片側にできる日陰のことです。たしかに道が伸びていれば、日差しが強ければ強いほどに、濃い陰が道にその姿を現しているわけです。普段は、陰が落ちていようといまいとなんら気になりませんが、気温が36度だ38度だという日々になれば、おのずと陰の存在感が増してくるというものです。休日の午後に、必ず犬の散歩に向かう私は、そんな日には道の端っこを、陰の中からはみ出さないようにしておそるおそる歩いています。大きな家の前はよいけれど、家と家の間であるとか、細い木が植わっている場所であるとかは、おのずと陰はひらべったくなっていて、その細い幅の中を、綱渡りでもするようにして、あくまでも陰から出ないようにして歩きます。ところが、困りました。あるところで家並みは尽き、ここから先は全く陰のない、全面に日の降り注いでいる道になっています。一瞬ためらった後、なにをそんなにこそこそと歩いていたのかと、それまでの散歩が急に恥ずかしくなってきます。降り注ぐものはあるがままに受け止めよ。そんなふうにどこかから叱咤されたように気になって、犬とともに、勇気を持って歩き出すのです。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)
July 242010
炎天の石を叩けば鉄の音
吉年虹二
炎天、見るからに熱くて暑い言葉だ。酷暑の日中の空やその天気をいう、ということで、空を眺めてみる。連日まさに猛暑だが、あらためて見ると炎天は、その中心に太陽がぎらぎら溶け出して、全体が白い光に覆われている。外に出て庭に敷いてある白い玉砂利にふれてみると、強い日差しを受けながらさほど熱くはないけれど、その横の金属のフェンスは焼けそうだ。この句は、実際石を叩いたのかどうか定かではないが、本来どこかひんやりしたイメージのある石も、炎天下で叩くと、鉄のような決して澄んで美しいとはいえない金属音がしたのだろうか。鉄の重さや、いつか見た溶鉱炉のどろどろとした炎色が思われて、ますます暑くなってくる。『狐火』(2007)所収。(今井肖子)
July 232010
一雲かぶさる真夏の浜辺に村人と
牧ひでを
一読黒田清輝の画のような平和な漁村の風景が浮ぶが、前書きを読むと様相は一変する。「広島へ四〇キロというふるさとにて原爆を受けし朝」。雲はキノコ雲であった。平和な時間を刻んでいるとしか思えない風景が実は凄惨な事実を孕んでいるというのは、まさしく近代の恐怖そのものだろう。牧ひでをさんは70年代の「寒雷」東京句会には必ず顔が見えた。楸邨の隣に座って言葉を区切りながらゆっくりと話す実に温厚な白髪の紳士であった。怒るように叫ぶように自己を表現する俳人は「寒雷」に多かったが、ひでをさんのように柔らかな言葉の語り口を持った人は稀であった。だからこそ、この句に込められた驚きと怒りの深さを思うのである。『杭打って』(1970)所収。(今井 聖)
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