梅雨末期の集中豪雨。最近は頻繁。昔はそれほどでもなかったような。(哲




2010ソスN7ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1072010

 まくなぎを抜け出して来て一人酒

                           星野半酔

号から推察してもお酒が嫌いではない作者だろう。〈荒塩があれば事たる霰酒〉〈ささ塩を振りて一人の小鰺かな〉などとも詠まれているので、お酒は好きなものを好きな時にじっくり一人で楽しむのを是とするタイプ。会話や酔うことを目的に飲むのではなく、お酒そのものが好きなのだ。まくなぎ、めまとひ。糠蛾とはよく言ったものだと思う。ただでさえ蒸し暑いのにともかくまとわりつき、立ち止まれば不思議と止まり、うっとおしいことこの上ない。そんなまくなぎを本当に抜けてきたのかもしれないが、何かをまくなぎになぞらえているのだとすれば、それはただの人混みなのか酒宴の喧噪か。後者だとすると、それなら大勢での酒席には行かなければいいのだが、なかなかそうもいかないし逆に、やれやれ、とその後じっくり飲む一人酒はことさらしみるのだろう。お目にかかってみたかったな、と思わせる遺句集『秋の虹』(2009)所収。(今井肖子)


July 0972010

 あぢさゐの毬の中なる隠れ毬

                           鷹羽狩行

ズムが明快で外の景の印象鮮明。機智があるけれど実感から入るために知的操作が浮き立たない。読み下して速度感がある。そしてどこか静謐な風景。抹香臭い神社仏閣などを源泉とするいわゆる俳句的情緒に依らない。内部の鬱を匂わせる戦後現代詩のモダンとは一線を画す。俳諧風流の可笑しみにも行かない。山口誓子が拓いて作者に受け継がれているこういう世界を今の流行には無い傾向として僕は見ている。あぢさゐの毬の中にある毬はあぢさゐの花の色と形から来る比喩として読めるが、同時にあぢさゐの咲いている茂みの中に置き忘れられた見えない毬を思っている内容にも思える。比喩としての毬と実際の毬が紫陽花の中で動いて重なる。『十六夜』(2010)所収。(今井 聖)


July 0872010

 生前と死後一対に重信忌

                           高橋 龍

信は1983年7月8日に亡くなった。彼が俳句の父と仰ぐ富澤赤黄男が昭和38年 3月8日、母と仰ぐ三橋鷹女が昭和48年4月8日に逝去、自分は58年5月8日に亡くなるだろうと常々予告していた。二か月ずれたが予言したとおり昭和58年に亡くなったわけで、その不思議さに言葉の呪力のようなものを感じる。それにしても享年60歳は若いと思わずにはいられない。重信が何かの評論で時間の遠眼鏡で未来から現在を覗くと今の俳句の世界は誰もいなくなって荒涼たるもんだと書いていた一節を覚えているが、その状況は今も変っていないだろう。若いころに結核を患い、常に晩年意識を持っていたこの人は常に死後の世界から現実を見ていたのかもしれない。生前と死後が一対だからこそ物事に対して見通しのよいまなざしを持ち鋭い評論を展開し続けることが出来たのだろう。『龍編纂』(2009)所収。(三宅やよい)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます