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July 0472010

 大揚羽教師ひとりのときは優し

                           寺山修司

の句の初出は昭和29年の「蛍雪時代」ということですから、高校3年生の時の作者が、初々しく詠んだ句となります。今では、教師が優しいのはあたりまえというか、優しくなければ問題になるわけですが、当時の教師像というのは、人によって差はあっても、今よりもだいぶ厳格な印象を持たれていたものです。とはいうものの、生来の人のあり方が、たかが半世紀ほどで変わるわけもありません。生徒の前ではいかめしい表情を見せていても、一人になったときには、いつもとは違う穏やかなものをたたえていたということのようです。「大揚羽」のおおぶりな書き出しが、生徒にとっての教師の大きさに、自然とつながっています。また、「ひとり」という言葉から連想されるさびしさも、きちんと「優し」には含まれていて、この教師のこれまでの人生が、妙にいとしく感じられてきます。『寺山修司全詩歌句』(1986・思潮社)所収。(松下育男)


July 1172010

 選挙カー連呼せず過ぐ青田道

                           日下徳一

日は参議院議員選挙投票日ということで、選挙にまつわる句です。選挙といえば選挙カーのやかましい連呼を取り上げたくなりますが、そこをひとひねりして、連呼していないところを詠んでいるのがこの句のミソです。たしかに、聞く人がいなければ連呼する必要はないのだなと、あたりまえのことに改めて納得させられてしまいます。それよりもなによりも、この句を読んでいると、なんだかくっきりとした線のイラストを思い浮かべてしまいます。選挙という、まさに人の世の生々しい出来事を詠みながら、そんなことからは離れて、盛夏に真っ白な雲が遠景に浮かび、青田の間の道をはるか遠目に通過してゆく選挙カーのすがすがしい映像が、ジブリアニメのタッチで見えてきます。車の中では、さきほどまで声をからして叫んでいた女性が、冷たいお茶を飲んでしばし休憩でもしているのでしょうか。その顔さえ、なんだかジブリ映画によく出てくる、鼻筋の通った一途な女性の横顔になっています。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2010年7月5日付)所載。(松下育男)


July 1872010

 浴衣着て全身の皺のばしけり

                           米津勇美

読、小さく笑ってしまったのは、「全身の皺」をのばしている人の姿を思い浮かべてしまったからです。浴衣の皺かもしれませんが、むしろ本人の心身の皺のことを詠っているように感じられます。仕事着を脱ぎ、浴衣に着替えて、大きく伸びでもしたところでしょうか。もしかしたら、休暇をとって温泉宿にでも到着した時のことなのかもしれません。読んでいるだけでぐっと背筋を伸ばしてみたくなるような、心地よさを感じます。洋服の皺を伸ばすならもちろんアイロンでしょうが、体の皺をのばすとなれば、マッサージチェアーに座るか、あるいは人の手に揉みほぐしてもらうことになるのでしょう。それにしてもどうして生き物というのは、体に触れられて適度な力を加えられることが、あれほど気持ちのよいものなのでしょうか。わたしの場合、最近はもっぱら我が家の犬をそばにおいて、体中をさわってあげることに終始しています。そのうち犬は、あまりの気持ちよさに仰向けになって、脚をピンと伸ばしてきます。その姿を見ているだけで、心の中に一日たまったわたしの皺も、自然と伸びてくるようです。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2010年7月11日付)所載。(松下育男)


July 2572010

 まつすぐに行けと片陰ここで尽く

                           鷹羽狩行

陰というのは、夏の午後に家並みなどの片側にできる日陰のことです。たしかに道が伸びていれば、日差しが強ければ強いほどに、濃い陰が道にその姿を現しているわけです。普段は、陰が落ちていようといまいとなんら気になりませんが、気温が36度だ38度だという日々になれば、おのずと陰の存在感が増してくるというものです。休日の午後に、必ず犬の散歩に向かう私は、そんな日には道の端っこを、陰の中からはみ出さないようにしておそるおそる歩いています。大きな家の前はよいけれど、家と家の間であるとか、細い木が植わっている場所であるとかは、おのずと陰はひらべったくなっていて、その細い幅の中を、綱渡りでもするようにして、あくまでも陰から出ないようにして歩きます。ところが、困りました。あるところで家並みは尽き、ここから先は全く陰のない、全面に日の降り注いでいる道になっています。一瞬ためらった後、なにをそんなにこそこそと歩いていたのかと、それまでの散歩が急に恥ずかしくなってきます。降り注ぐものはあるがままに受け止めよ。そんなふうにどこかから叱咤されたように気になって、犬とともに、勇気を持って歩き出すのです。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 0182010

 炎天へ打つて出るべく茶漬飯

                           川崎展宏

れだけ暑い日が続くと、自然と水分をとる機会も多くなり、徐々に胃の働きも弱ってきます。今日の夕飯はいったい何なら口に入るだろうといった具合に、消去法で献立が決まるようになります。そうめんとか冷やし中華なら入るな、と思いつつも、でも昨日もそうだったわけだし、たまにはお米を食べなければ、という思いから頭に浮かぶのは、手の込んだ料理ではなく、たいていおにぎりとかお茶漬け。日本人たるもの、おにぎりやお茶漬けだけは、よっぽどのことがない限りいつだって食べられるのです。本日の句では、暑い盛りの外へ出かける前に、力をつけるために茶碗に口をつけてお茶漬けをかきこんでいる様子を描いています。おそらく汗をだらだらたらしながらの食事と見受けられます。「打って出る」という言葉が、どこか喧嘩か討ち入りにでも出かけるようで、たすきがけでもして食事をしているようなおかしさを、感じさせてくれます。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 0882010

 熱出す子林間学校一日目

                           林 和子

だまだ貧しい時代に学生だった私には、修学旅行以外に旅行などに行く機会はありませんでした。長い夏休みも、だから基本的にはなにもやることもなく、毎日ごろごろしていた記憶があります。それでもどういった加減か、中学一年生のときに一度だけ、林間学校へ行かせてもらったことがあります。今考えれば、親もたくさんの子供を抱えて生活も大変だったろうに、よくそんなお金を出してくれたものだなと、ありがたくも思い出すのです。たった一度の林間学校だから、今でも鮮明に八ヶ岳に登ったことを覚えています。旅行の前の数日間は、待ち遠しくて仕方がなく、どうしてこんなに楽しいことが自分の人生に起こるのだろうと、わくわくしていました。おそらく繊細な感受性の子供であったなら、本日の句のように、そんなときにはなぜか熱などを出して楽しみも台無しになってしまうのでしょうが、生来鈍感なわたしは、幸せをそのまま欠けるところもなく、まるごと受け取ることができたのです。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 1582010

 終戦日妻子入れむと風呂洗ふ

                           秋元不死男

たしが生まれたのは1950年8月。終戦から5年後になります。それでも小さなころから、自分の誕生日の近くになにか特別な記念日があるのだなと意識をしていました。「いつまでもいつも八月十五日」(綾部仁喜)という句にもあるように、いまだに毎年のようにテレビでは、終戦の日に皇居の前にひざまずく人たちの姿が映し出され、昭和天皇の肉声を聞くことになります。終戦の年に生まれた人もすでに65歳、となれば戦争をじかに経験した記憶のある人は、すでに70歳を超えていることになります。しかし、そんな年齢の計算を度外視しても、国としての記憶が、たしかにわたしの中にもしっかりと根付いています。今日の句が詠んでいるのは、終戦日に風呂を洗っている日常のありきたりな図ですが、「妻子をいれむ」の心の向け方が、生きることのかけがえのなさを表現しています。だれかのために何かをしてあげられることの幸福は、だれも奪ってはいけないと、あらためて思うわけです。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 2282010

 早口な介護士が来て秋暑し

                           芦田喜美子

るほど、こんな情景も句になるのだなと、感心してしまいました。介護士が来たのだからこの家には病人か老人がいるわけです。畳敷きの狭い部屋には、背中の持ち上がるベッドが置いてあります。秋とはいえ暑い日が続いている間は、部屋の中にはけだるい空気が漂い、家族の話す言葉も静かでゆったりしたものになっています。そんなところにいきなり、外のにおいを全身に身につけて、威勢良く部屋に上がりこんで若い介護士が来たのでしょう。次から次へてきぱきと手順を説明する声は早くて大きく、日本語なのに、その意味をとらえることができません。おそらく病人とは対極にあるようなこの元気のよさは、住んでいるものだけではなく、部屋全体にとっての驚きであるわけです。そういえば、老いた母を病院に付き添ったときに、お医者さんの前で、にわかに自分の年齢や健康が気恥ずかしくなる感覚を持つのは、なぜなのでしょうか。つね日ごろは、仕事や人事のことであれこれ悩んでいる身も、親のそばに立つと、単に健康で、単純な生き物に自分が感じられてくるのです。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 2982010

 サイロより人が首出し秋晴るる

                           木村凍邨

んどうの形の建物の、高いところに単純な窓がくりぬかれていて、そこから人が首を出しているというのです。おそらくその人は、秋に収穫した農産物か、あるいは家畜の飼料を収蔵する作業でもしていたのでしょう。この句を読んでいると、理屈ぬきにすがすがしい気持ちになります。その理由はおそらく、遠くへ放り投げられた視線にあるのではないかと思います。作者はあくまでもこちら側にいて、詠われている対象は適度な距離と、適度な高さのところ置かれています。まさに、対象に近づきすぎるなという、創作の基本を思い出させてもくれます。サイロの中は真新しい植物の匂いに満ち、むせ返るような命の熱に、思わず外の空気を吸いたくなったのでしょう。確認するまでもなく、秋の空は見事に晴れ、そのかけらがきらきらと、窓から入り込んで来ているのでしょうか。『合本 俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


September 0592010

 耳かきもつめたくなりぬ秋の風

                           地 角

かきを耳の中に入れる前には、当然耳かきを手で持つわけですから、ここで冷たいと感じたのは、耳かきを持った瞬間なのでしょうか。あるいは耳をかいている時に、冷え冷えとした季節の変わり目を感じたというのでしょうか。柴田宵曲もこの句について、「天地の秋が人工の微物に到ることを詠んだのである」と解説しているように、どこからかやってきた秋は、どんなに隠れた隅っこや小さな空き地をも見逃さずに、季節をびっしりと行き渡らせるようです。江戸期の句ですから、おそらく木製の耳かきなのでしょうが、冷たくなりぬという感覚は、金属製のものに、むしろ当てはまりそうです。寒くなるからさびしくなるのではなく、寒くなっただけなぜかうれしさがこみ上げてくる。変わる季節を迎えるたびに打ち震える胸の中にも、びっしりと秋は入り込んできます。柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波書店)所載。(松下育男)


September 1292010

 秋風や何為さば時みたされむ

                           相馬遷子

石の小説だったと思いますが、主人公が休日の前に、今度の休みにはあれもやってこれもやってと、さまざまな予定をたてているというのがありました。しかし、いざ休みの日になってみれば、ぼーっとしているうちに朝も昼も過ぎてしまい、あっというまに夕方になってしまったというのです。たしかにこんな経験は幾度もしているなと思い、というか、わたしの場合など、ほとんどの休日は、予定していたものはいつかできるだろうと次々に先延ばしをして、だらだらと時をすごしているだけです。しかし、だからといって、予定していたものをてきぱきと片付けたとしたらどうかというと、今度はもっとゆっくり疲れを取りたかったなと、日曜日の夜にサザエさんのテーマを聴きながら、別の後悔に襲われることになるのです。本日の句、人としてこの貴重な人生の時間に、いったい何をしていれば心は満たされるかと悩んでいます。何をしたところで、その日にできなかったことが自分を責めてくるのだと、さびしい心を抱えてしまうのは、たしかに秋風の季節に似合いそうです。『現代の俳句』(1993・講談社)所載。(松下育男)


September 1992010

 まげものを洗へばひかる秋の水

                           小池文子

社の昼休みに、人事のことなどで悩みながら歩いていると、街中の看板に目を奪われることがあります。「てびねりの楽しさ」と書いてある「てびねり」とは何だろうと、その看板を目にするたびに思います。でも会社に戻れば、待っている仕事に追われて、そんなことはすぐに忘れてしまうのです。もっとも、「てびねり」がどのような意味をもっていようと、わたしにはそれほどに興味がないのです。惹かれているのは、その語のたたずまいなのです。語は、すっとわたしの中に入ってきて、頭の中をきれいに冷やしてくれます。本日の句にも、同じような感想を持ちました。「まげもの」という言葉の響きのおおらかさに、なんだかあらゆるものの心が、素直に背中を曲げてくつろいでゆくような気持ちがします。ネットで調べれば「まげもの」とは、「檜(ひのき)・杉などの薄い板を円筒形に曲げ、桜や樺(かば)の皮でとじ合わせ、これに底をつけて作った容器。わげもの。」とあります。洗って光るまげものの曲線にそって、流れてゆく次の季節に、だれもがうっとりと見とれてしまいます。『合本 俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


September 2692010

 夫と来てはなればなれに美術展

                           龍神悠紀子

そらくこの夫婦は、新婚まもなくではなく、結婚してからかなりの月日を過ごした後なでしょう。私自身のことを考えても、結婚前のデートでは、彼女を誘ってしばしばしゃれた美術館へ、見たこともない画家の絵を無理して観に行ったことはあります。しかし、いったんその人と結婚してしまえば、子育てだ、住宅ローンだ、子供の受験だと、次々にやって来る出来事の波を乗り切るのが精一杯で、妻とゆっくりと美術展に行ったことなど思い出せません。子供が大きくなり、手を離れてから、ふっとできた時間の中で、夫婦の足は再びこのようなところへ向くようになるのでしょう。それでも独身時代とは違って、一緒に並んで観て回るなんて、余計な気を遣う必要はもうないのです。絵がつまらないと思えばさっさと次の展示物へ行ってしまうし、あるいは妻が先へ行ったところで、自分がじっくり観たいものはそれなりに時間をかけて観ることができるわけです。ああ、こんなふうに二人ではなればなれになることもできるのだなと、それまでの時間の重なりのあたたかさを、絵とともに見つめることができるのです。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


October 03102010

 われをつれて我影帰る月夜かな

                           山口素堂

の句の意味は説明するまでもありません。また、どういった思考経路によってこの句が生み出されてきたのかも、明瞭です。自分についてくる影と、自分の立場を、単純に逆転しただけの作品です。しかし、解説すれば単にそれだけのものでも、作品が持つ力は意外に強く読者に迫ってきます。あたりまえの逆転でも、読めばふっと驚いてしまうし、色の濃い影が実体をひきずってとぼとぼと帰宅する様子は、視覚的にも印象的なものです。創作というのは、多くの解説によって複雑に説明されるものがよいとも限らないのだなと、この句を読んでいると改めて認識させられます。ありふれた発想から生まれた句が、かならずしもありふれた句にはならない、ということのようです。実体を覆すほどの描写は、おそらくこれからも、あたりまえの思考経路から出来てくるのでしょう。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


October 10102010

 さびしさはどれも劣らず虫合

                           北 虎

夜10時になると、犬の散歩に出かけるわたしは、このごろ確かに虫の涼やかな声を聞くことが多くなりました。坂道の途中で犬が、理由もなく急に立ち止まると、やることもなくその場で虫の声に聞き入ってしまいます。今日の句、虫合は「むしあわせ」と読みます。平安時代に、郊外に出かけて鳴き声のいい虫を捕り、宮中に奉ったことを「虫選(むしえらび)」と言い、虫の声のよしあしを合わせて遊ぶことを虫合というと、歳時記に説明がありました。なるほど、今ほど刺激的な時間のつかい方がなかった時代には、草づくしだの、虫合だの、じかに手で自然に触れて、そのまわりでささやかな楽しみを見つけていたようです。今日の句では、虫たちが競っている響きのよい声を、「さびしさ」に置き換えています。秋の虫の声そのものにさびしさを感じるだけではなく、一生を美しく鳴き通すことをも、さびしいといっているかのようです。そういえばこのさびしさは、どんな遊びに興じた後にも襲ってくるさびしさと、通じるものがあるのかもしれません。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


October 17102010

 波音は岸に集まり秋の風

                           稲田秋央

日の句を読んでいると、これだけあたりまえの言葉だけをつかっても、優れた句はできるものなのだなと、感心してしまいます。「波音」「岸」「秋」「風」という、さんざん句に詠まれてきた単語も、「集まり」という、これも珍しくはない単語によって見事に生き返っています。もしここに、「集まり」以外の単語が入ったとしたら、おそらくこれほど情感の深い句にはならなかったのではないかと思われます。文芸というのは、一語たりともおろそかにはできないものだと、改めて教えられるようです。波の、繰り返し打ち寄せてくる動きが、音さえもこちらに流れついているのだと感じることの美しさ。さらに、岸に集まったものは、静かに手で掬えそうな心持にもなってきます。秋の冷たい風に吹かれながら、てのひらいっぱいに掬った波音を見つめながら、これまでの人生に思いをはせるのは、秋という季節をおいてありえません。『俳句入門三十三講』(2003・講談社)所載。(松下育男)


October 24102010

 老人はそれぞれ違ふ日向もつ

                           塚原麦生

たしの家の近所には大きな団地があります。昔からある団地で、月日とともに住んでいる人たちも年をとってきます。休日にバスに乗り込むと、多くの老人が吊革や棒につかまって危なっかしげに立っていることに気づきます。でも、座っているのはさらに年上の老人ばかりです。もうこうなってしまうと、全席がシルバーシートのようなものです。と、ここで気がつくのは、老人という言葉から受け取る印象です。子供のころには、年をとったら穏やかな老年を迎え、みんな平穏な心持になってのんびりと日向ぼっこをしていられるのだろうと無責任に考えていました。でも、もちろんそんなわけはあるはずがないのです。車窓から深く差し込む日差しの中に座っている老人も、あるいはつり革につかまってよろけている老人も、当たり前のことながらそれぞれに固有の人生を持ち、固有の欲にとらわれ続けているわけです。あたる日の暖かさは同じでも、皮膚に感じる暖かさの種類は、老人それぞれに違っているわけです。『俳句入門三十三講』(2003・講談社)所載。(松下育男)


October 31102010

 天高し洗濯機の海荒れてゐる

                           日原正彦

者は詩人。透明感のある美しい詩を、これまでに何編も生み出しています。初めてこの詩人の詩に出会ったときには、言葉の尋常でないきらめきに、強い衝撃を受けた記憶があります。ああ、日本の詩でもこれほどに胸をうつものが作品として成立するのだなと思い、それ以来わたしにとっては、詩を作るときの目標にもなっています。たとえば、「訪ねる人」という作品。「君は脱いだ帽子をあおむけにテーブルにおく/するとその紺青の深さに きらきらと/白い雲が浮かんでいたりして…/すると突然それは金魚鉢であったりして/ぼんやりした赤い色彩が/しだいに金魚の命を塑造し始める」(「訪ねる人」より)。ここに全編引用するわけにもいきませんから、このへんでやめておきます。この作者の名を、朝日俳壇で時折に見るようになったのは、いつごろのことだったでしょうか。詩人が句を詠むときにありがちな、鮮やかさに偏ることなく、句を作るときには句のよさを追求してゆくのだという姿勢が見られます。洗濯機は室内ではなく、秋空の見えるベランダにでも置いてあるようです。洗濯機の中を覗く詩人の目が、何を見つめ、この後、句をどのように育て上げようとして行くのか、楽しみではあります。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2010年10月25日付)所載。(松下育男)


November 07112010

 予備校の百の自転車冬に入る

                           長島八千代

は今年とうとう60歳になってしまいましたが、若いころに想像していた60歳とはずいぶん感じが違います。言うまでもなく時は切れ目なく流れてきており、しかし古いものから過去が遠ざかってゆくというわけではありません。未だに何十年も昔の、学生のころの夢をみてうなされることがあります。一生の体験のうち、記憶に残りそうなことは、ほとんど成人前にかたよっているように思われます。あるいは、若いころは生きることにまだ新鮮な精神を持っており、それゆえにちょっとしたことでも鮮明に覚えてしまうのかもしれません。本日は立冬。この歳になってみれば単に季節の変わり目に過ぎませんが、来年受験をひかえている学生にとっては、特別な意味を持っています。ああもう冬になってしまったか、まだ受験の準備は進んでいないのにと、ほとんどの受験生はあせりを感じるころです。予備校にとめられている自転車の数だけ、そんなあせりを運んできたものと思えば、なんだかサドルの群れに、小声でエールを送ってあげたくもなります。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 14112010

 先生ありがとうございました冬日ひとつ

                           池田澄子

時記を読んでいて、必ず立ち止まってしまう俳人が何人かいます。池田さんもそのうちの一人。前後に並ぶ句とは、いつもどこかが違う。どうして池田さんの句は、特別に見えるんだろうと、考えてしまいます。ところで僕は、必要があってこのところ「まど・みちお」の童謡や詩をずっと読んでいますが、まどさんの詩も、なぜかほかの詩人とは違う出来上がり方なのです。わかりやすい表現に徹している俳人や詩人はほかにいくらでもいます。でも、問題はそんなところにはありません。池田さんやまどさんは、余計な理屈や理論などで武装する必要もなく、表現の先端がじかに真理に触れることができる、そんな能力を持ち合わせているのかなと、思うわけです。特別なのは、だから句の出来上がり方だけではなくて、句に向かう姿勢そのものなのです。あたたかな冬の日に、ありがとうと素直に言えるこころざしって、だれもが感じることができるのに、なかなかこうしてまっすぐに表すことは、できません。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 21112010

 柔道着で歩む四五人神田に冬

                           草間時彦

とさら作者のことを調べなくても、句を読んでいれば、草間さんはサラリーマンをしていたのだろうなということが想像されます。俳人にしろ、詩人にしろ、作品からその人のことが思い浮かべられる場合と、そうでない場合があります。つまり、作品を人生に添わせている人と、引き離している人の2種類。もちろんどちらがいいとか悪いとかの問題ではなく、でも、僕は年をとってくるにつれ、前者の作品に心が動かされる場合が多くなってきたように感じます。本日の句は、まさに俳句でしか作品になりえない内容になっています。神田という地名から、やはり柔道着を着ているのは大学生なのかなと、感じます。ランニング練習のあとで、ほっとして校舎にもどる途中ででもあるのでしょうか。四五人分の汗のにおいと呼吸の白い色が、すぐそばに感じられる、そんな句になっています。『合本 俳句歳時記 第三版』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 28112010

 子の暗き自画像に会ふ文化祭

                           藤井健治

化祭というのは秋の季語でしょうか。この句をわたしは、11月22日の朝日新聞の朝刊で読みました。詩はともかく、句に接することのそれほど多くないわたしの日常で、朝日俳壇は貴重な俳句との接点になっています。藤井さんがこの句を詠んだ時から、それが投句され、さらに選者によって選ばれ、選評とともに朝日俳壇に載るまでには、おそらく何週間かがすでに経っています。ですから、新聞で読む句はいつも、その時のではなく、少し前の季節の風を運んでくれます。今日の句を読んで、ああこの気持ちよくわかるなと感じた人は少なくないでしょう。子供というのは、いつまでも親の見えるところにいるのではないのだということを、実感をもって示してくれています。絵に限らず、文学においても、身内のものが創ったものを目の当たりにすることには、どこかためらいを感じます。そのためらいは、単に恥ずかしさだけのせいではないようです。どこか、自分のある部分が、その創作の暗さとつながっているような、申し訳ないような気持ちにもなるのです。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2010年11月22日付)所載。(松下育男)


December 05122010

 我が寝たを首あげて見る寒さかな

                           小西来山

め人には朝おきるのがつらい季節になりました。眠さだけではなく、布団の外の寒さに身をさらすのが、なんとも億劫になるのです。特に月曜の朝に目覚ましが鳴ったときなど、いつもより30分早く会社に行けば仕事がはかどるだろうというつもりでセットした針を、自分で30分遅らせてまた眠ってしまいます。今日の句、眠った自分を、別の自分が外側から見ているという意味でしょうか。どうもそうではないような気がします。ただ首をもちあげて、横になった自分の体が布団の中にきちんとおさまっているかを確認しているだけのようです。「首あげて」の姿が具体的に思い浮かべられて、なんともおかしい句になっています。「我が寝たを」という言い方も、ちょっと無理があるかなという感じがしないでもありませんが、それも句の面白さの中では許されているようです。首をあげて確認したあとは、ありがたくも贅沢な眠りが、布団の中で待っていてくれます。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


December 12122010

 あたためて何包みたき掌か

                           能村登四郎

識してそうしたわけではないのですが、これまでの選句を見直してみれば、わたしはすでにいくつも能村さんの句をここにとりあげてきました。それはもちろん、句の見事さによるものですが、それだけではなく、もっと手前の、ものの見方や感じ方のところで、すでに能村さんに捕らえられてしまっているのかもしれません。今日の句も、ああいいなという感想をまず持ちます。でも、ああいいなというのは、描かれた掌の優しさによるものなのか、このような句を詠むことのできる作者のあたたかさのためなのか、判然としません。火鉢か、あるいは焚き火にでも手を広げてあたためているのでしょう。あたたまった手のひらを、自分のためだけではなく、何かを包んであげたいという思いへ広げてゆく。そんな思考の向き方に、読者はもう十分に温まってしまいます。『鑑賞歳時記 第四巻 冬』(1995・角川書店)所載。(松下育男)


December 19122010

 忘年酒とどのつまりはひとりかな

                           清水基吉

末に限らず、会社の同僚との飲み会というものが、最近はずいぶん減ったように思います。個人的にそう感じるものなのか、時代の厳しさがそうさせているのか、定かではありません。とにかく、「この一年ご苦労様」と、暢気に乾杯のできる世相では、もうないようです。先週の日曜日に、詩の仲間との忘年会に参加しましたが、こちらのほうは実生活とは別の部分でのつながりでもあり、詩集が出たの、まだ出ないのと、はたから見たらどうでもいいことに話題は盛り上がって、気楽に酔うことができました。今日の句は、忘年会で酔っ払って気勢を上げていたものの、帰り道で一人一人と別れてゆくうちに、最後は自分だけになったということを詠っているのでしょうか。「とどのつまり」の一語が、どこかユーモラスに感じられます。電車を降りて家に向かう道では、酔いもだいぶ覚めてきています。そんな、元気のなくなってゆく様子が、自嘲気味に句の中にしまわれています。『合本 俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


December 26122010

 ともかくもあなた任せのとしの暮

                           小林一茶

リスマスが終われば毎年、私の勤める会社の玄関先では、早々にツリーが取り払われ、翌日には新しい年を迎える飾り付けに変わっています。毎年の事ながら、作業をする人たちの忙しさが想像されます。私事ながら、長い間お世話になった会社を今年末で終える私にとっては、いつもの年末ではなく、健康保険だ、年金だ、雇用保険だで、手続きに忙しい日々が続いています。しかしこちらのほうは、あなた任せにするわけにもいかず、慣れない用紙に頭をひねっているわけです。さて、本日の句です。あいかわらずとぼけていて、わかったようでどうもよくわからない句です。「あなた」をどのように解釈するかによって、家庭の中のことを詠んだ句なのか、あるいは世の中すべてを見渡している句なのかが決まるのでしょう。どちらにしても、「ともかくも」この句を読んでいると、なぜか安心してしまいます。年末だからといって、そうあくせくする必要はない。どうせなるようにしかならないのだからと、だれかに肩をたたかれているような、ほっとした気持ちになってきます。『俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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