9%ではなく11%でもなく10%。切りはよくても根拠は薄弱。(哲




2010ソスN6ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 3062010

 千枚の青田 渚になだれ入る

                           佐藤春夫

書に「能登・千枚田」とある。輪島市にあって観光地としてもよく知られる千枚田であり、白米(しろよね)の千枚田のことである。場所は輪島と曽々木のほぼ中間にあたる、白米町の山裾の斜面いっぱいに広がる棚田を言う。国が指定する部分として実際には1,004枚の田があるらしい。私は三十年ほど前の夏、乗り合いバスでゆっくり能登半島を一人旅したことがあった。そのとき初めて千枚田を一望して思わず息をのんだ。「耕して天に到る」という言葉があるが、この国にはそのような耕作地が各地にたくさんあり、白米千枚田は「日本の棚田百選」に選ばれている。まさしく山の斜面から稲の青がなだれ落ちて、日本海につっこむというような景色だった。秋になれば、いちめんの黄金がなだれ落ちるはずである。千枚田では田植えの時期と稲刈りの時期に、今も全国からボランティアを募集して作業しているのだろうか。春夫が千枚田を訪れたのはいつの頃だったのか。日本海へとなだれ落ちる青田の壮観を前にして、圧倒され、驚嘆している様子が伝わってくる。いちめんの稲の青が斜面から渚になだれ入る――それだけの俳句であるし、それだけでいいのだと思う。この文壇の大御所は折々に俳句を作ったけれど、雑誌などに発表することはなかったらしい。他に「松の風また竹の風みな涼し」「涼しさの累々としてまり藻あり」など、出かけた土地で詠んだ句がある。いずれも屈託がない。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 2962010

 瓜食んで子どもら日照雨見てゐたり

                           足立和信

照雨(そばえ)は細照雨とも書き、太陽が出ているのに降る小雨のこと。掲句では、きらきらと明るい降雨が、子どもたちの遊びのちょっとした休憩となって、縁側あたりに並んで雨があがるのを待っている。子どもにとって苦手な雨や、退屈な待ち時間でありながら、がっかりした様子が見えないのは、彼らにもこれがすぐ止むことが分かっているからなのだろう。「そばえ」には戯れたり甘えたりする意味もあるというから、子どもたちには一層親しい雨である。外の遊びを半ばで中断されたために体中にまとわりついている熱気が、瓜で冷やされていく様子は、無尽蔵のパワーメモリがみるみる補充されていくかのようだ。本句集の序文で森澄雄氏は掲句を取りあげ、山上憶良の「瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ いづくより来りしものぞ まなかひにもとなかかりて安眠し寝さぬ」の子を思う歌が敷かれていると書く。そして、この万葉集の長歌に続く反歌こそ、ことによく知られた「銀(しろがね)も金(こがね)も玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも」である。とりたてて特別でない日常の風景が、親にも子にも忘れがたい一瞬となって、それぞれの記憶に刻印される。『初島』(2010)所収。(土肥あき子)


June 2862010

 川甚に来れば雨やむ夏料理

                           村山古郷

の店「川甚」には、一度だけ行ったことがある。もう三十数年も前のことだが、たしか詩人の会田綱雄さんを囲む会だった。江戸期に操業した川魚料亭で、柴又帝釈天の近くにある。夏目漱石、幸田露伴、谷崎潤一郎、尾崎士郎、松本清張など数々の文人が訪れたことでも有名で、寅さん映画の第一作にも登場している。句意は説明するまでもあるまいが、いかにも夏料理にふさわしい涼風も感じられて好もしい。こういう句は、この句を俳誌「俳句」で紹介しているいさ桜子の言うように、「句は、風景・場所との取り合わせで成り立っています。風景・場所は誰でも知っている特定の所というイメージが立つ事が重要です」。が、私に言わせればその前にもうひとつ。作者その人のイメージが、もっと重要な要素になるだろう。平たく言ってしまえば、作者その人のイメージと店の格とが釣り合っていなければならない。私のようにたった一度だけ行ったことがある程度では、まったく釣り合いがとれないから、句にはならない。広い意味での文人俳句にはこの要素が多く、漱石だから露伴だからはじめて句として読める作品は枚挙にいとまがない。そう考えると、この句には羨望の念と同じくらいに反発心も覚えてしまう。「俳句」(2010年7月号)所載。(清水哲男)




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