普段なら寝る時間にはじまる。明日は睡眠不足の人で溢れるぞ。(哲




2010ソスN6ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2962010

 瓜食んで子どもら日照雨見てゐたり

                           足立和信

照雨(そばえ)は細照雨とも書き、太陽が出ているのに降る小雨のこと。掲句では、きらきらと明るい降雨が、子どもたちの遊びのちょっとした休憩となって、縁側あたりに並んで雨があがるのを待っている。子どもにとって苦手な雨や、退屈な待ち時間でありながら、がっかりした様子が見えないのは、彼らにもこれがすぐ止むことが分かっているからなのだろう。「そばえ」には戯れたり甘えたりする意味もあるというから、子どもたちには一層親しい雨である。外の遊びを半ばで中断されたために体中にまとわりついている熱気が、瓜で冷やされていく様子は、無尽蔵のパワーメモリがみるみる補充されていくかのようだ。本句集の序文で森澄雄氏は掲句を取りあげ、山上憶良の「瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ いづくより来りしものぞ まなかひにもとなかかりて安眠し寝さぬ」の子を思う歌が敷かれていると書く。そして、この万葉集の長歌に続く反歌こそ、ことによく知られた「銀(しろがね)も金(こがね)も玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも」である。とりたてて特別でない日常の風景が、親にも子にも忘れがたい一瞬となって、それぞれの記憶に刻印される。『初島』(2010)所収。(土肥あき子)


June 2862010

 川甚に来れば雨やむ夏料理

                           村山古郷

の店「川甚」には、一度だけ行ったことがある。もう三十数年も前のことだが、たしか詩人の会田綱雄さんを囲む会だった。江戸期に操業した川魚料亭で、柴又帝釈天の近くにある。夏目漱石、幸田露伴、谷崎潤一郎、尾崎士郎、松本清張など数々の文人が訪れたことでも有名で、寅さん映画の第一作にも登場している。句意は説明するまでもあるまいが、いかにも夏料理にふさわしい涼風も感じられて好もしい。こういう句は、この句を俳誌「俳句」で紹介しているいさ桜子の言うように、「句は、風景・場所との取り合わせで成り立っています。風景・場所は誰でも知っている特定の所というイメージが立つ事が重要です」。が、私に言わせればその前にもうひとつ。作者その人のイメージが、もっと重要な要素になるだろう。平たく言ってしまえば、作者その人のイメージと店の格とが釣り合っていなければならない。私のようにたった一度だけ行ったことがある程度では、まったく釣り合いがとれないから、句にはならない。広い意味での文人俳句にはこの要素が多く、漱石だから露伴だからはじめて句として読める作品は枚挙にいとまがない。そう考えると、この句には羨望の念と同じくらいに反発心も覚えてしまう。「俳句」(2010年7月号)所載。(清水哲男)


June 2762010

 さくらんぼ笑で補ふ語学力

                           橋本美代子

は「えみ」と読みます。季語はさくらんぼ。いったいよくもこれほどかわいらしいものが世の中にあるものかと思うほどに、色艶も、大きさも、手と手をつなぎあっているその姿も、完璧な果物です。一生こんなものを眺めていられるなら、さぞや楽しい人生だろうと思うわけですが、この句はそれほどに楽な状況ではなくて、おそらく外人との会話に、困り果てている姿を詠っています。これで文法は正しいだろうか、とか、3単現のエスを忘れてしまった、とか、言いたい単語は頭の中にその姿を現しているものの、どうしてもその言葉が出てこないとか、困りきった挙句に笑ってごまかしています。35年以上も外資系の会社に勤めて、そのほとんどの期間において外人の上司の下で働いていた私としては、実に、人ごととは思えない句です。ところで、さくらんぼと、この状況とはどんな関係があるのでしょうか。困り果てた挙句に浮かび出た素直な笑顔が、弱さをありのままに出していて、なんとも無防備で無垢なかわいらしさをたたえていた、それゆえのさくらんぼなのでしょうか。『俳句のたのしさ』(1976・講談社)所載。(松下育男)




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