参院選注目点。民主でも自民でもないという人がどこに入れるか。(哲




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June 2562010

 母が泣く厨のマッチ火星へ発つ

                           土居獏秋

建的な夫、または婚家の姑や小姑にいびられている母が厨で煮炊きのマッチをする。点火したマッチはそのままロケットになって火星へ旅立つ。初版1965年の金子兜太著に載っている作品だから少なくともそれ以前の作。厨で泣くという設定がいかにも古い時代の「母」の典型を思わせるが、その母の手元からマッチがロケットになって火星に飛んでいくという発想はどこか泥臭くて、いびられている女の現実離脱願望が出ていてリアルだ。その現実から半世紀近く経った今は、誰がどこで泣いていて、そこで何を夢想するのだろう。泣かされているのは老人か、幼児虐待の幼児か、引きこもりの青年か、ニートの群れか。『今日の俳句』(1965・光文社)所載。(今井 聖)


June 2462010

 アロハシャツ似合へる夫の余生かな

                           木村たみ子

生を辞書で引くと「一生で(最盛期を過ぎて)残った命、生活」とある。いつからを余生と呼ぶのか、それを区切るのはあくまで本人だろうが、会社を退職し、毎日が日曜日という生活になじんでくるとこの言葉が実感として響いてくるかもしれない。現役時代はほとんどの時をネクタイと背広で過ごして、服装には無頓着な男の人も多い。退職して家にいるようになるとどんな格好をして過ごすのだろう。昔だとステテコにシャツのご隠居が夕涼みしている姿が定番として思い浮かぶが、団塊の世代はジーパンとスニーカーであちらこちら駆け回りそう。掲句のアロハシャツは夫自身の好みで選んだのか、家族からのプレゼントか。緑や赤の派手な模様の入ったアロハシャツを着こんで、籐椅子でカメラなどをいじっている夫。最後の「かな」の詠嘆にそのような静かな時間を二人で共有する喜びが表されているように思う。『水の音』(2009)所収。(三宅やよい)


June 2362010

 立札のなき花ありて梅雨の園

                           田村泰次郎

園に咲くそれぞれの花には、たいてい名前を書いた札が立ててある。薔薇園などでもうるさいほどマメに札が立てられている。プリンセス・ダイアナ、プリンセス・ミチコ……といった具合である。薔薇にかぎらず花に見覚えはあっても、名前まで詳しくない当方などにはありがたい(すぐに忘れてしまうのだけれど……)。もっともダイアナとミチコの違いなど、当方にはどうでもよろしい。梅雨どきの花園は、訪れる人も少ないだろう。そうしたなかで、なぜか立札がない花があったりする。立札のあるものはスッと見て過ぎるにしても、立札のない花には妙に気にかかって、しばし足を止めしまうことがある。掲句では、花の前に何人かかたまって覗き込んでいるご婦人方が、あれよこれよと知識をひけらかしているのかもしれない。さりげない花でも、立札があれば一人前に見えるからおかしい。雨が降っていたり曇天だったりすると、立札のないのが歯抜けのように妙に気にかかってしまったりする。何気ないこまやかな着眼にハッとさせられる句である。泰次郎は小説「肉体の悪魔」「肉体の門」などで敗戦直後にセンセーションを巻き起こした。映画にもなった。そんなことを知る人も少なくなった。泰次郎には多くの俳句がある。「故旧みなひと変りせる祭りかな」「昨日来し道失へる野分かな」。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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