角界賭博。名前が出てきたのは貴乃花に近しい面々ばかりだそうな。(哲




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June 2162010

 父に似て白き団扇の身に添へる

                           渡辺水巴

く団扇を使う。いちおう部屋には冷房装置があるのだけれど、あの冷え方は好きじゃないので、ここ三年ほどはもっぱら団扇でパタパタやっている。といっても、私が使う団扇は街頭などで配られている広告入りのものだから、風情も何もあったものではない。そこへいくと、掲句の作者が使っている団扇は、ちゃんとした商品として売られていたものだろう。毎夏いろいろな色やデザインのものを求めてきたが、いつしか白系統の団扇に落ち着いてきた。白いものが、結局は自分にしっくりくると思うようになった。思い起こせば、父の好みもそうだった。やはり親子は似て来くるものだなあと、しばし苦笑まじりの感慨を覚えている。ここでいま私が使っている団扇をつくづくと眺めてみると、表にも裏にもぎとぎとの豚骨ラーメンの写真が出ている。なんとも暑そうなデザインで、これで扇いだヒには、熱風でも巻き起こりそうな感じである。どうしてこのラーメン屋は夏にこんな暑苦しい団扇を配ったのか。涼味を呼ぶにはほど遠い絵柄の団扇を、しばし眺めて溜め息をついたのだった。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


June 2062010

 父の日の忘れられをり波戻る

                           田川飛旅子

日は父の日、ということでせっかくなので父の日の句です。手元の歳時記で父の日の句を調べてみれば、たしかに何句かはあるものの、すでに清水さんがこの欄で過去に採り上げており、選択肢はおのずと狭まってしまいます。(季語検索で「父の日」を参照してください)父の日に限らず、記念日を詠んだ句には、どうしても句の内容をその日に強引に結び付けようとする心持が働いて、どこか無理があるなと感じるものが多いようです。あるいは、記念日の意味にぴったりと付いたものになって、発想の広がりに制約ができてしまうこともあります。また、その記念日から、誰もが連想するものを素直に読者と確認しあうものもあります。本日の句は、そういった確認句のうちのひとつ。父の日がつい忘れがちになってしまうという、だれもが感じる、母の日との受け止め方の違いを詠んでいます。ただ、最近はデパートやコンビニの宣伝もあって、町のいたるところに「父の日のプレゼントは?」という文字が見られるようになってきたため、本日の句の感慨も、若干違ってきています。とはいうものの、母という文字の重さには、どんな時代になっても到底適いはしないなと、子の父であるわたしも、めずらしくプレゼントされたウイスキーを眺めながらつくづく思うわけです。『合本 俳句歳時記第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


June 1962010

 息づかひ静かな人と蛍の夜

                           茨木和生

種の蛍は、たくさんいても同じリズムで光るのだという。まだ薄明るい空を時々仰ぎながらじっと待っていると、ひとつ、またひとつ光り始め、気がつくと蛍の闇の中にいる蛍狩り。そのリズムが、熱を持たない光を、蛍の息づかいのように感じさせるのだろう。残念ながら私は、子供の頃近所の川で見たとか、句友数人と蛍狩りに行ったとかいう記憶しかない。この句の作者は、二人並んで同じ蛍を見ながら、同じ時間を過ごしていることに、同じ空気を吸っていることに、静かな喜びを感じている。まわりにたくさん人がいて話し声がしていても、作者に聞こえるのは目の前の蛍の鼓動と、隣にいる人のかすかな息づかいだけ。女流作家の蛍の夜の句とはまた違った艶を持つ句、遠い記憶の中の忘れられない蛍の夜、なのだろうか。『畳薦』(2006)所収。(今井肖子)




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