南ア取材陣に期待するのは競技よりも南アの実情についての報告だ。(哲




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June 1262010

 百合の香の朝やはらかと思ひつつ

                           小川美津子

、家に帰りついて部屋のドアを開けた途端、そこに百合の闇が待ちかまえていたことがあった。何年か前のちょうど今頃、むっとする空気とともに一気に押し寄せるその香りは、まさに息が詰まるほど。芳香には違いないが、ちょっと苦手という人もいるかもしれない。山道を歩いていて、ほのかに百合の香りがするのに花が見あたらず、よく見たら枯れた百合がそっと落ちていた、ということもあった。ほんのりと甘さを風に残しているくらいで、ちょうどよかった気がする。この句の作者は、朝の散歩で百合に出会ったのか、朝摘みの百合を活けたのか。百合も目覚めたばかり、まだひんやりとすがすがしく、その香りもなんとなく漂うくらいなのだろう。「やはらかと思ひつつ」今日もきっと暑くなるし百合の香りもさらに濃く、百合らしくなっていくのだろうと思いながら、静かな朝のひとときを過ごしている。『青田』(1996)所収。(今井肖子)


June 1162010

 空梅雨の黒々とくる夜空かな

                           中村夕衣

という字がふたつあり、一方は「から」一方は「そら」。雨は空からくるものだから梅雨と空はイメージが重なる。夜は暗いものだから黒々と夜は重なる。全部で13文字のあちこちで意味や背景や色の印象が重なり、ふつうなら欠点となるその重複感が逆に圧倒的な天空の黒の量感を出している。意図しても得られない世界というと作者にとってうれしい評言かどうかはわからぬが、言葉のイメージの足し算引き算に長けた人にはこんな句はできない。計算づくでは得られない世界をどうやって計算して出すか。古典への造詣などを知的背景として蓄えたあげくに童心に戻ることができるか。それは芭蕉が心に置いたことでもあった。「俳句」(2009年9月号)所載。(今井 聖)


June 1062010

 おまへまで茹でてしまうたなめくぢり

                           西野文代

年の5月に西野文代さんが八十七回目の誕生日を迎えられた。それを記念して「爽波を読む会」に集まった仲間たちの鑑賞文を集めた『なはとびに』が上梓された。一読、作品の魅力を引きだす鑑賞の面白さと同時に選び出されている西野さんの俳句のおおらかさ、自在さに魅了された。掲句は青菜の裏についていたなめくじが、ぷかっとお湯に浮かびあがってきたのだろうか。「おまへまで」の「まで」に野菜を茹でるにも、はい食べさせてもらいますよ、熱いけどごめんなさいよ。と言った心持ちであり、それに加えて何も知らないで青菜を食べていたおまえまで茹でてしまうた、罪なことをしたなぁと語りかけているすまなさが感じられた。そんな作者の優しい気持ちが文語表記の柔らかさに生かされている。森羅万象、動物や虫たちのいのちと同等に付き合えるようになり、その気持ちがそのまま俳句になるには俳人としての修練以上に人としての年季が必要なのだろう。なめくじを見つけたら塩をかけて喜んでいる自分なんぞは到底その境地に至れそうにない。「なんぢ毛虫雨粒まみれ砂まみれ」「へちまぞなもし夜濯の頭に触れて」『なはとびに』(2010)所収。(三宅やよい)




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