季語「入梅」は今日を指す。実際とは違うから、意味ない限定だな。(哲




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June 1162010

 空梅雨の黒々とくる夜空かな

                           中村夕衣

という字がふたつあり、一方は「から」一方は「そら」。雨は空からくるものだから梅雨と空はイメージが重なる。夜は暗いものだから黒々と夜は重なる。全部で13文字のあちこちで意味や背景や色の印象が重なり、ふつうなら欠点となるその重複感が逆に圧倒的な天空の黒の量感を出している。意図しても得られない世界というと作者にとってうれしい評言かどうかはわからぬが、言葉のイメージの足し算引き算に長けた人にはこんな句はできない。計算づくでは得られない世界をどうやって計算して出すか。古典への造詣などを知的背景として蓄えたあげくに童心に戻ることができるか。それは芭蕉が心に置いたことでもあった。「俳句」(2009年9月号)所載。(今井 聖)


June 1062010

 おまへまで茹でてしまうたなめくぢり

                           西野文代

年の5月に西野文代さんが八十七回目の誕生日を迎えられた。それを記念して「爽波を読む会」に集まった仲間たちの鑑賞文を集めた『なはとびに』が上梓された。一読、作品の魅力を引きだす鑑賞の面白さと同時に選び出されている西野さんの俳句のおおらかさ、自在さに魅了された。掲句は青菜の裏についていたなめくじが、ぷかっとお湯に浮かびあがってきたのだろうか。「おまへまで」の「まで」に野菜を茹でるにも、はい食べさせてもらいますよ、熱いけどごめんなさいよ。と言った心持ちであり、それに加えて何も知らないで青菜を食べていたおまえまで茹でてしまうた、罪なことをしたなぁと語りかけているすまなさが感じられた。そんな作者の優しい気持ちが文語表記の柔らかさに生かされている。森羅万象、動物や虫たちのいのちと同等に付き合えるようになり、その気持ちがそのまま俳句になるには俳人としての修練以上に人としての年季が必要なのだろう。なめくじを見つけたら塩をかけて喜んでいる自分なんぞは到底その境地に至れそうにない。「なんぢ毛虫雨粒まみれ砂まみれ」「へちまぞなもし夜濯の頭に触れて」『なはとびに』(2010)所収。(三宅やよい)


June 0962010

 梅雨の夜や妊るひとの鶴折れる

                           田中冬二

ろそろ梅雨の入り。梅の実が熟する時季に降る雨だから梅雨。また、栗の花が咲いて落ちる時季でもあるところから「墜栗花雨(ついりあめ)」とも呼ぶと歳時記に説明がある。雨の国日本には雨の呼称は数多くあるけれど、「黴雨」「梅霖」「荒梅雨」「走梅雨」「空梅雨」「梅雨晴れ」などなど、梅雨も多様な呼び方がされている。さて梅雨どき、昼夜を通して鬱陶しい雨がつづいている。妊った若妻であろうか、今夜も仕事で帰りの遅い夫を待ちながら、食卓で所在なく黙々と千代紙で鶴を折っている。「鶴は千年……」と言い伝えられるように、長寿の動物として鶴は古来尊ばれてきた。これから生まれてくる吾子が、健やかに成長してくれることと長寿を願いながら、一つ二つと鶴を折っているのであろう。静けさのなかに、雨の夜の無聊と、生まれてくる吾子に対する愛情と期待が雨のなかにもにじんでいる。冬二には『行人』『麦ほこり』など二冊の句集があるが、実作を通して「俳句は決して生やさしいものではない」と述懐している。相当に打ち込んだゆえの言葉であろう。筆者は生前の冬二をかつて三回ほど見かけたことがあるけれど、長身痩躯で眼鏡をかけ毅然とした表情が印象に強く残っている。冬二の句に「白南風や皿にこぼれし鱚の塩」がある。たまたま梅雨と鶴を組み合わせた句に、草田男の「梅雨の夜の金の折鶴父に呉れよ」がある。平井照敏編『新歳時記』夏(1990)所載。(八木忠栄)




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