iPad、見てると電子書籍時代が来るという実感が湧く。とにかく美麗。(哲




2010ソスN5ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 3052010

 永遠はコンクリートを混ぜる音か

                           阿部青鞋

遠もコンクリートも、どの季節に属しているとも思えませんので、この句は無季句です。永遠を定義しようとする試みは、正面から向かうのはどうも無理なようですから、とんでもないもので説明するしか方法はないようです。たとえばこれを、「永遠はなべの底か」でも「永遠はキリンの咀嚼か」でも、最後を疑問形にしてしまえば、そこそこ意味がありそうに見えます。どんなふうに言ってみたところで、永遠を理解することなど、所詮できはしないのだという人の悲しみが、含まれてしまいます。死と愛が、詩の普遍のテーマであるなら、永遠はどちらにも寄り添うことのできる都合のいいテーマであるわけです。今からずっとずっと先、さらにそれよりも遠い未来があるということを考えているだけで、人は誰しも詩人になるしかありません。それにしても、どうして永遠がコンクリートを混ぜる音なのでしょうか。見ていても、いつまでも終わらないからだと、単にそれだけの意味なのでしょうか。まあ、いろんな解釈はあると思いますが、どれが正解かなんて、永遠の前でどんな意味を持つでしょう。『俳句鑑賞450番勝負』(2007・文芸春秋)所載。(松下育男)


May 2952010

 仏壇は要らぬさくらんぼがあれば

                           小西昭夫

笑んだ小さい写真一枚に、ガラスの器のさくらんぼ。初夏の風の吹き抜ける部屋で、またこの季節が来たわね、と写真に話かけたり。と、すがすがしい風景も想像される。果物の中で、これがとにかく大好物で、という話をよく聞く。他の食べものや野菜などに比べて、季節感が濃く、その時期にしか出回らないものが多いからだろう。知人にもいろいろいて、さくらんぼや西瓜を初め、無花果や枇杷から、ぐじゅぐじゅに熟した柿に目がないの、という人までいる。年に一度その旬を心待ちにする喜びがあるので、よりいっそう好きになるのだろう。仏壇は要らぬ、という断定の頑固さと、さくらんぼへの愛しさの結びつきに、作り事でない本心が見えて、おかしみのあとちょっとしみじみしてしまう。『小西昭夫句集』(2010)所収。(今井肖子)


May 2852010

 西日つよくて猪首坑夫の弔辞吃る

                           野宮猛夫

首(いくび)のリアル。吃る(どもる)のリアル。ここまで書くのかと思ってしまう。俳句はここまで書ける詩なのだ。俳句はおかしみ、俳句は打座即刻。俳句は風土。俳句は観照。そんな言葉がどうも嘘臭く思えるのは僕の品性の問題かもしれない。諧謔も観照も風土も或いは花鳥も、人生の喜怒哀楽やリアルを包含する概念だと言われるとああそうですかねとは言ってみてもどうも心の底からは納得しない。風流韻事としての熟達の「芸」を見せられてもそれが何なのだ。坑夫の弔辞であるから、炭鉱事故がすぐ浮ぶ。猪首と吃るでこの坑夫の人柄も体躯もまざと浮んでくる。作品の中の「私」は必ずしも実際の「私」とイコールでなくてもいい。その通りだ。ならば、こんなリアル、こんな「私」を言葉で創作してみろよと言いたい。ここまで「創る」ことができれば一流の脚本家になれる。『地吹雪』(1959)所収。(今井 聖)




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