朝鮮半島緊張。が、沖縄駐留海兵隊の存在価値が上がるわけじゃない。(哲




2010ソスN5ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2852010

 西日つよくて猪首坑夫の弔辞吃る

                           野宮猛夫

首(いくび)のリアル。吃る(どもる)のリアル。ここまで書くのかと思ってしまう。俳句はここまで書ける詩なのだ。俳句はおかしみ、俳句は打座即刻。俳句は風土。俳句は観照。そんな言葉がどうも嘘臭く思えるのは僕の品性の問題かもしれない。諧謔も観照も風土も或いは花鳥も、人生の喜怒哀楽やリアルを包含する概念だと言われるとああそうですかねとは言ってみてもどうも心の底からは納得しない。風流韻事としての熟達の「芸」を見せられてもそれが何なのだ。坑夫の弔辞であるから、炭鉱事故がすぐ浮ぶ。猪首と吃るでこの坑夫の人柄も体躯もまざと浮んでくる。作品の中の「私」は必ずしも実際の「私」とイコールでなくてもいい。その通りだ。ならば、こんなリアル、こんな「私」を言葉で創作してみろよと言いたい。ここまで「創る」ことができれば一流の脚本家になれる。『地吹雪』(1959)所収。(今井 聖)


May 2752010

 雷が落ちてカレーの匂ひかな

                           山田耕司

はじめから天気が悪い。いよいよ雨の季節の到来だろうか。どしゃぶりの雨に空がゴロゴロ鳴り始めると犬が恐がって家中を走り回る。幼いころ裏庭の灯籠が雷の直撃を受けて真二つに裂けたことがある。落雷の瞬間の物凄い音と、翌日ぱっくり割れた石を見た恐ろしさは忘れない。今でも雨模様の空を遠くから雷が近づいてくると犬ばかりでなく落ち着かない気持ちになる。掲句を一読、落雷をカレーの匂いと結び付ける発想にびっくり。そう言われてみれば、ぴかっと落雷が落ちた瞬間、黄色っぽく照らし出される風景がカレーびたしに思えてくるから不思議だ。落雷への常套的な思い込みを捨てて感覚を働かせた結果、視覚が味覚へつながり奇抜に思える言葉が飛びだしてきたわけで、こちらも五感を働かせてイメージしてみればなかなか説得力がある。おじる気持ちも落雷なんて、カレーまみれになるだけさ、と思えば度胸がつくかも。掲句を含む句集には、そんな具合に楽しい大風呂敷があちこちに広げられている。「手をひつぱる鬼は夕焼け色だつた」「少年兵追ひつめられてパンツ脱ぐ」『大風呂敷』(2010)所収。(三宅やよい)


May 2652010

 五月雨ややうやく湯銭酒のぜに

                           蝶花楼馬楽

月雨は古くから俳諧に詠まれてきたし、改めて引用するのもためらわれるほどに名句がある。五月雨の意味は、1.「さ」は稲の植付けで「みだれ」は雨のこと、2.「さ」はさつき、「みだれ」は水垂(みだ)れのこと――などと説明されている。長雨で身も心もくさくさしている売れない芸人が、湯銭や酒を少々買う金に不自由していたが、なんとか小銭をかき集めることができた。湯銭とか煙草銭というものはたかが知れている。さて、暇にまかせて湯へでも行って少々の酒にありつこうか、という気持ちである。貧しいけれど、むしろそのことに身も心も浸している余裕が感じられて、悲愴な句ではない。さすがは噺家である。「銭(ぜに)」は本来、金や銀で造られた「お金」ではなく、小銭のことを意味した。「銭ぁ、こまけえんだ。手ぇ出してくんな…」で知られる落語「時そば」がある。芭蕉の「五月雨の降り残してや光堂」のような、立派で大きな句の対局にある捨てがたい一句。晩年に発狂したところから「気違い馬楽」とも呼ばれた三代目馬楽は、電鉄庵という俳号をもっていた。妻子も弟子もなかったが、その高座は吉井勇や志賀直哉にも愛された。「読書家で俳句をよくし(中略)…いかにも落語家ならではの生活感にあふれた句を詠んでいる」(矢野誠一)と紹介されている。他に「ご無沙汰の酒屋をのぞく初桜」がある。矢野誠一『大正百話』(1998)所載。(八木忠栄)




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