どこに基地を移設しても当該地は迷惑。基地廃絶の方向を探るべきだ。(哲




2010ソスN5ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2552010

 そのあとの籐椅子海へ向きしまま

                           荒井千佐代

集のなかで「父の死後」と前書のある作品群の一句なので、「そのあと」とは父がこの世にない現在という意であることは明白なのだが、籐椅子の存在がぽっかりと口を開けたような悲しみを言うともなく引き出し、「そのあと」がどのあとであるかの含みや余韻を深くしている。密に編まれた籐椅子は、徐々に身体のかたちに馴染み、うっすらと凹凸が刻まれる。その窪みは、そこに座っていた者の等身大の輪郭である。あるじの重みをそのままかたちに残している籐椅子は、作者にとっていつまでも海を見ている父の姿そのものなのだろう。夏の季語である籐椅子は、夏の時期に涼を得るために使用されるものだが、この籐椅子はこれよりきっと通年そのままにされることだろう。そして、たまには懐かしむようにその窪みに収まり、以前父がしていたように海に目をやり、耳を傾けたり、家族がかわるがわる身体を預けることだろう。それはもう椅子というより、父の分身であるように思えてくる。〈炎天の産着は胸に取り込みぬ〉〈十字架のイエスが踏絵ふめといふ〉『祝婚歌』(2010)所収。(土肥あき子)


May 2452010

 臨時総会なる薄暗がりに日傘

                           渡辺誠一郎

う四十年以上も前のことを思い出した。在勤していた河出書房が倒産し、臨時の株主総会が開かれたのは青葉の季節だった。私は組合の書記長という立場から傍聴することになり、すさまじい怒号の飛び交う会合を体験したのだった。窓外の初夏の陽光とは裏腹に、会合は最後まで重苦しくやりきれない雰囲気に包まれた。会社側の社長以下重役陣はひたすら謝りつづけ、株主はひたすら怒鳴りまくり、しかしそんななかにも僅かながら冷静な株主もいて、それらの人がみな業界大手に属すると知れたときには、いっそうやりきれなさが募ったことも思い出された。句の臨時総会の中身はわからないが、「臨時」と言う以上、何かただならぬ事態が想像される。決して明るい総会ではあり得ない。作者の立場も読めないけれど、誰が立てかけたのか、会場の隅の薄暗がりに日傘があるのに気がついた。まったく事態は日傘どころではないのに、そんな個人的な日除けなんぞはどうでもよいときに、どういう了見からか、何事もないかのように持ち込まれた一本の日傘。日傘に罪は無いのだが、なんだか不適切、不謹慎にさえ思えてくる。一本の平凡な日傘も、ときに思わぬことを語りはじめるのである。「週刊俳句 Haiku Weekly」(第161号・2010年5月23日)所載。(清水哲男)


May 2352010

 空き缶がいつか見ていた夏の空

                           津沢マサ子

を書いていてどうにも行き詰まったときには、わたしの場合、登場人物に空を見上げさせます。空を見上げるという行為がもたらしてくれるものに、助けられることがしばしばあるからです。それというのも、八木重吉の有名な「あかんぼが空を見る」を持ち出すまでもなく、人生いろんなことがあるけれども、わたしたちは所詮、空をみつめて生まれ、空を見つめて日々を生き、空を見つめてこの世を去ってゆくからなのでしょう。気がつけば「空き缶」という言葉にも「空」がきちんと入っていて、つまりは空き缶の中には空がびっしりと詰まっているというわけです。どこから見ても明解な句ですが、唯一考えさせられるところは、「いつか」の1語。今ではなく「いつか」と言っているだけなのに、それだけで意味深げになるから不思議なものです。いつかの空に、いったいなにがあったのでしょうか。水溜りの脇に捨てられた空き缶とともに空を見つめれば、私の中もすっかりカラになって、喉もとまで空が満ちてくるような気がします。『角川大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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