行きつけの喫茶店が六月から禁煙に。同じ禁煙ならスタバに行こう。(哲




2010ソスN5ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2052010

 夏来る農家の次男たるぼくに

                           小西昭夫

をわたって吹く風が陽射しに明るくきらめいている。すっかり故郷とはご無沙汰だけど来週あたりは田植えかなぁ、机上の書類に向けていた視線をふっと窓外に移したときそんな考えがよぎるのは「農家の次男」だからか。この限定があるからこそ夏を迎えての作者の心持ちが読み手に実感となって伝わってくる。高野素十の句に「百姓の血筋の吾に麦青む」という句があるが、掲句のなだらかな口語表現はその現代版といった味わい。素十の時代、家と土地は代々長男が受け継ぐ習わしだった。次男、三男は出稼ぎいくか、新天地を開発するか、街で新しい仕事へ就くほかなかったろう。自然から離れた仕事をしていても身のうちには自然の順行に従って生活が回っていた頃の感覚が残っている。青々とつらなる田んぼを思うだけ胸のうちが波立ってくるのかもしれない。今は家を継ぐのは長男と決まっているわけではないが、いったん都会へ就職すると定年になるまでなかなか故郷へ帰れない世の中。そんな人たちにとって、老いた両親だけの農村の営みは常に気にかかるものかもしれない。ゴールデンウィークや週末の休みを利用して田舎へ帰り、田んぼの畦塗りに、代掻きに忙しく立ち働いた人達も多かったかもしれない「今日からは青田とよんでよい青さ」「遠い日の遠い海鳴り夏みかん」。『小西昭夫句集』(2010)所収。(三宅やよい)


May 1952010

 初夏(はつなつ)や坊主頭の床屋の子

                           長嶋肩甲

主頭で子供時代を過ごした昔の子は、たいてい家庭で親がバリカンで頭を刈ってくれた。私も中学までそうだった。刈ってもらっているあの時間は、子供にとって退屈で神妙なひとときだった。母が手動のバリカンで刈ってくれるのだが、時々動きが鈍ったり狂ったりして、髪の毛を喰ってしまうことがあった。「痛い!」。「我慢せい!」と言って、バリカンで頭をコツンとやられた。挙句はトラ刈りに近い仕上がりになってしまうから、文句たらたら。「我慢せい! すぐに伸びら」。さすがに高校生になると床屋へ行った。床屋の子ならば、プロである親にきれいに刈ってもらって、初夏であればクリクリ坊主頭がいっそう涼しそうに見える。初夏の風に撫でられ、いい香りさえ匂ってきそうだ。トラ刈りを我慢させられる身にとっては、じつに羨ましかった。冬の坊主頭は寒そうだが、夏は他人の頭であっても眺めていて気持ちがいい。「理髪店」や「BARBER」ではなく「床屋」と表現したことで、懐かしい子供の坊主頭を想像させてくれる。肩甲は作家・長嶋有の俳号。『夕子ちゃんの近道』で第一回「大江健三郎賞」(2006)を受賞した。若いけれど、すでに句集『月に行く』『春のお辞儀』『健康な俳句』があり、屈託のない自在な世界をつくり出している。「めざましの裏は一人でみる冬日」「初夏やつまさき立ちで布団叩く」など。『健康な俳句』(2004)所収。(八木忠栄)


May 1852010

 夏帽子研修生と書かれたる

                           杉田菜穂

年度の四月一日から一ヵ月が過ぎたこの時期、新しい環境にそろそろ慣れるか、はたまた五月病と呼ばれる暗がりに落ち込んでしまうかは、大きな分かれ道である。見回せば木々の青葉は噴き出すような勢いで茂り、ジャスミンやバラなど香りの強い花が主張し、太陽はストレートに肌を射してくる。過激な自然を味方につけ一層元気になる人もいれば、ストレスを積み重ねている人にとっては圧倒され萎縮してしまう陽気なのかもしれない。研修や実習を経てから、本格的に就業する職場はさまざまだが、どれも特定した分野での必要な知識が磨かれる期間であり、初めての経験は緊張と高揚が繰り返されていることだろう。「研修生」とあることで、多少の失敗も「まぁ、しょうがないか」で済ませてもらえることもあるが、一人前までの道のりは遠くけわしいものだ。掲句は「夏帽子」の効果で、明るさが際立ち、若々しくのびのびとした肢体が描かれた。まばゆい夏の日差しのなかで、初々しい研修生たちの声が明るく響き、生涯のなかでもっともエキサイティングな一時期が過ぎてゆく。〈好き嫌い好き嫌い好き葡萄食ぶ〉〈クリスマスツリーの電気消す係〉『夏帽子』(2010)所収。(土肥あき子)




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