近所の図書館も、さすがに閑散と。老人三人が新聞を読んでいた。(哲




2010ソスN5ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0452010

 お早うと言ふはつなつのひびきなり

                           奥坂まや

成19年からは今日が「みどりの日」。先月29日の「昭和の日」となった元「みどりの日」には、なんだか人間の都合で移動していただいた感もあるが、ともあれ日本列島はGWのまっただ中。心地よい陽気に連なったお休みで、羽を伸ばしている方も多いだろう。「おはよう」には、「お早くから○○ですね」の前半が残された挨拶であるという。業種によっては、昼過ぎや夜間になっても「おはよう」の挨拶を交わすところがあるが、これも自分より早くから働いている人へのねぎらいとともに、スタートの意欲や意気込みが含まれるのだと思うと納得がいく。また、英語の「Good morning」にはたいてい最後に名前を付けて、その人へ、と向けられるが、日本語の「おはよう」には窓を開いて朝の光りに、若葉を満たした街路樹に、道ゆく猫に、と投げかけられ、万象から活気をもらうおまじないのような効用も感じられる。明日は立夏。暑いさなかの立秋や、こごえる立春など、少々やせがまんを強いられるような節気のなかで、唯一気温と言葉が一致する気分の良い節目である。「初夏(はつなつ)」のはつらつと清々しい季節にむかって、今朝は「おはよう」を言ってみる。『縄文』(2005)所収。(土肥あき子)


May 0352010

 手毬咲き山村憲法記念の日

                           水原秋桜子

ある山村を通りかかると、純白の大手毬、小手毬が春の日差しを浴びて美しく咲いている。あたりには人の気配もない。そんな時間の止まったような風景のなかで、作者は今日が憲法記念日であったことを想起している。いまは「全て世は事も無し」のように思えるこの山村にも、かつての戦争の爪痕は奥深く残っているのだろう。詠みぶりがさらりとしているだけに、かえってそうした作者の思いが鮮やかに伝わってくる。決して声高な反戦句ではないが、しかし内実は反戦の心に満ちていると読める。もう戦争は二度とごめんだ。敗戦後の日本人ならば誰しも持ったこの願いも、昨今では影が薄まってきた感があり、憲法九条の見直し論が大手を振ってまかり通るようにさえなってきた。直接の戦争体験を持つ人が少なくなってきたこともあるだろうが、一方では戦後世代の想像力の貧弱さも指摘できると思う。想像力の欠如と言っても、そんなに大仰な能力ではなくて、たとえば「命あっての物種」くらいのことにも、実感が届かない貧弱さが情けない。それだけ、それぞれの個としての存在感が持てなくなってしまったのか。現象に流されてゆくしか、生き方は無いのか。ならば、もはや詩歌の出番も無くなってしまっているのではないか。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


May 0252010

 ぶらんこの人を降ろして重くなり

                           武仲敏治

語は「ぶらんこ」、春です。もともと文学というのは、人と違ったことを言いたがる傾向にありますから、ものの見方を逆にしてみるというのは、決して珍しいことではありません。それでも今日の句のように、このテクニックがまだまだ新鮮に感じられることがあるから、不思議なものです。要は、逆説的にものを見た、それだけではないものを作品が示してくれているかどうかにかかっているようです。この句では、ぶらんこは人が降りたら軽くなるのではなく、むしろ重くなるのだといわれて、ああそういう見方もあるのかと、なぜか頷いてしまいます。つまり、読み終わった瞬間に、理由はともかく、読者が頷いてくれるかどうかが作品成立の分かれ道です。長谷川櫂氏は、「今まで軽やかに揺れていたのに、もはや垂れたまま動かず」と、解説しています。なるほどそう言われてみればそうなのかと思います。ただ、擬人にとらわれてしまう私には、自分に思いを寄せてくれていた人が、突然去ったあとの心の重さのことなのだと、つい受け止めてしまうのですが。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2010年4月26日付)所載。(松下育男)




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