3Dテレビ。自宅でわざわざ専用眼鏡をかけてテレビなんか見たくない。(哲




2010ソスN4ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2342010

 いまだ名のつかざる男の子あたたかし

                           小澤 實

前をつけられ、名前で呼ばれ、言葉を教えられ、ものの名を教えられて人は常識を身に着ける。法に沿って常識は権力に都合のいいように書き換えられ規定される。右にも左にも上にも下にもはみださぬように設定された中での、倫理観やら反骨などはガス抜きに過ぎない。名前のつく前の裸の赤子に無限の可能性が詰まっている。もっとも弱きものの中にもっとも強固な変革の核がある。「俳句」(2009年5月号)所載。(今井 聖)


April 2242010

 春闌けてピアノの前に椅子がない

                           澤 好摩

アノの椅子はどこへ行ったのだろう。確かに、椅子のないピアノは間が抜けている。ピアノを弾こうとする立場からこの句を読めば、はて、とあたりを見まわす落ち着かない気分になる。立って弾いてもさわりぐらいは奏でられるかもしれないが、本格的に弾こうと思えば腕に力が入らない。やはりピアノは全身を使って奏でる楽器だろう。ただ椅子がないのが常態の姿と考えると、弾き手がいなくなって、見捨てられたピアノが巨大な物置場になって部屋にある様子が想像される。子供のためによかれと小さい頃からピアノをやらせたものの大きくなるにつれ面倒なピアノの練習を放り出して、見向きもしなくなるのはよくあるパターン。巣立った娘たちに置き去りにされたピアノは春の物憂さを黒光りする身体に閉じ込め、蓋を閉じたまま沈黙している。この春も終わろうとしているのに誰にも触られないまま古びてゆくピアノは孤独かもしれない。『澤好摩句集』(2009)所収。(三宅やよい)


April 2142010

 あんぱんの葡萄の臍や春惜しむ

                           三好達治

暦の歳時記では四月はもう夏だけれど、ここでは陽暦でしばし春に足をとどめて春を惜しんでみたい。三好達治という詩人とあんぱんの取り合わせには、意外性があってびっくりである。しかも、ポチリと付いているあんぱんの臍としての一粒の葡萄に、近視眼的にこだわって春を惜しんでいるのだから愉快。達治の有名な詩「春の岬」は「春の岬 旅のをはりの鴎どり/浮きつつ遠くなりにけるかも」と、詩というよりも短歌だが、鴎への洋々とした視点から一転して、卑近なあんぱんの臍を対比してみるのも一興。行く春を惜しむだけでなく、あんぱんの臍である一粒の葡萄を食べてしまうのが惜しくて、最後まで残しておく?ーそんな気持ちは、食いしん坊さんにはよく理解できると思う。妙な話だけれど、達治はつぶあんとこしあんのどちらが好きだったのだろうか。これは味覚にとって大事な問題である。私も近頃時々あんぱんを買って食べるけれど、断然つぶあん。その懐かしさとおいしさが何とも言えない。いつだったか、ある句会で「ふるさとは梅にうぐひす時々あんぱん」という句に出会った。作者は忘れてしまったが、気に入った。達治は大正末期に詩に熱中するまでは、俳句に専心していたという。戦後は文壇俳句会にも参加していたし、「路上百句」という句業も残している。「干竿の上に海みる蛙かな」という句など、彼の詩とは別な意味での「俳」の味わいが感じられる。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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