April 152010
くろもじで切るカステラや春の月
広渡敬雄
雑木林を散歩したとき淡い黄色の小花をつけた灌木を指差して「くろもじ」と教えてくれた人がいる。「くろもじ」は緑色の樹皮に黒い斑模様があるので、それを文字に見立ててこの名前がついたという。その木の名前そのままにフォークや小さなナイフ形の菓子楊枝に加工されたものも「黒文字」と呼ぶそうだ。ネットで調べると材質に香気があるので、水に浸して拭ってから使うといいと書いてあった。やわらかいカステラにぐっとはいる黒文字がしっとりとしたカステラ生地の弾力を感じさせる。ぼんやりと明るい春の月との調和もいい。どっしりとした「くろもじ」という言葉がカステラの軽さを引き立てている。そういえば、昭和30年代のカステラは高級菓子で、お使い物で来るカステラは桐箱に入っていた。今はケーキ一個の値段でカステラ一本買えたりするけど、あの上品な味わいは生クリームたっぷりの洋菓子にはないよさだ。食べ物の句は何より食欲をそそることが肝心、すぐにでも「カステラ」を買ってきて熱いお茶とともに食べたくなった。『ライカ』(2009)所収。(三宅やよい)
April 142010
春の日をがらんと過ごすバケツだよ
山本純子
桜が終わって、春の日はいよいようららかでのんびりとして穏やかである。あちらこちらからあくびがいくつも出て来そうな気配。海はひねもすのたりのたりしていて、雲雀は空高く揚がり、トンビはくるりと輪を描いているかもしれない。ま、春は人もトンビもさまざまでありましょう。そんなのどかな風景に、場違いとも思われるバケツの登場である。いや、バケツだって空(から)の状態では、大あくびだってするさ。海にも行けず、空にも揚がれないバケツはどこに置かれているにせよ、大口をいっぱいにあけて春の日を受け入れ、しかもがらんとしたまま無聊を慰めているしかない。掲句ではバケツの登場もさることながら、「だよ」という口語調のシメがズバリ新鮮な効果をあげている。いつだったか、中島みゆきがコンサートのステージに登場するや、いきなり「中島みゆきだわよ」と挨拶した可笑しさを想起してしまった。ここは「かな」や「なり」のような、いかにも俳句そのものといった、ありきたりの調べにしてしまってはぶちこわしである。俳句誌の「変身!?」という特集で、純子が自らバケツに変身して「小学校の廊下の片すみで、まわりにゾウキンとか、四、五枚もかけられて、始業のベルが鳴るまで、ぼけっと過ごすの、キライじゃないけど、ヒマなんだよね。…」というコメントを付して掲げた一句。詩集『あまのがわ』で二〇〇五年度のH氏賞を受賞した。『船団』84号(2010)所載。(八木忠栄)
April 132010
橋の裏まで菜の花の水明り
鳥井保和
暖色のなかで一番明るい黄色は、もっとも目を引く色として救助用具にも採用される。堤一面の菜の花が川面を染め、橋の裏にまで映えているという掲句に、春の持つ圧倒的な迫力を感じる。これからの季節、菜の花を始め、山吹、れんぎょう、たんぽぽと黄色の花が咲き続く。蜜や花粉を採取する昆虫の色覚が、黄色を捉えやすいからということらしいが、長い冬から解放された大地が、まず一斉に黄色の花を咲かせることが、生への渇望のようにも見え、頼もしくも身じろぐような凄みもある。「橋の裏」という普段ひんやりと薄暗いところまで光りを届けるような菜の花を、作者は牧歌的に美しいというより、積極的に攻める色として見ているのではないだろうか。山村暮鳥の「いちめんのなのはな」にも文字を連ねることで鬼気迫る感覚を引き出しているが、掲句にも大地が明るすぎる黄色に染まるこの季節の、おだやかな狂気が詠まれているように思うのだった。〈樹齢等しく満開の花並木〉〈水を飲む頸まで浸けて羽抜鶏〉『吃水』(2010)所収。(土肥あき子)
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