再来年から初夏と初秋の連休を全国5ブロックに分割して取る法案浮上。(哲




2010ソスN4ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1042010

 ここ此処と振る手儚し飛花落花

                           池田澄子

花から満開まで何度か花を見に出かけたが、ほとんどダウンジャケット着用。夜、月を仰ぎながら、ぼーっと飛花落花の中に立つ、ということもないまま花は葉に、となりそうだ。咲いてから冷えこむと確かに花の時期は長いけれど、枝の先の先までぷっくりまるく咲ききって、そこに満ちあふれた散る力が、光と風に一気に解き放たれるあの感じはやや乏しい気がする。それでも、花の下で幾度か待ち合わせをした。目当ての花筵を探したり、来る人を待ったり。遠くから視線が合うと皆手を振る。掲出句で手を振っているのは、作者を待っていた人か。花びらの舞う中でひらひら動くその手に、ふと儚さを感じたのだろう。空へ地へ散り続く花の中にあると、確かな意志を持って明るく振られている手がそんな風に見える瞬間が、きっとある。『俳句』(2010年4月号)所載。(今井肖子)


April 0942010

 骸骨ふたつ 紅茶も花も今朝のまま

                           室生幸太郎

の句、1979年の作品なので、なんとなくモダニズムふうな仕立ての意図だろうと思うが、孤独死、虐待死が日常的な今日においては世相そのものである。モダンなイメージに現実が追いついたのだ。毎年、日露戦争の死者の数を超える自殺があると聞くと、映画でみたあの二百三高地の累々たる死者のありさまを想像しておぞましい気持になる。この作者の傾向からいって「花」は桜ではないだろう。机の上の花瓶に生けられた一般的な花だ。「俳句研究」(1979年10月号)所載。(今井 聖)


April 0842010

 羽のある蛇を描きて日永かな

                           有馬朗人

野火、メキシコと題された中の一句。羽のある蛇はアステカの遺跡の壁画に残された絵なのだろうか。幾何学模様がエキゾチックなリズムとともに描き出されていることだろう。こうして「日永」という季語を合わさってみるとのんびりした春の季感を超えて、もっと長い長い時間へ巻き戻されてゆくようだ。羽のある蛇は人間が自分と動物・植物を分かつことなく畏敬の念をもって交わっていた時代、身近にいる蛇が空中を飛ぶとき羽が見えたのかもしれない。描かれた壁画を見ているのだろうが、「蛇を描きて」という言葉に眼の前で彩色しているのを眺めている気分になる。きっと作者は画を眺めながらワープしているのだろう。この句集ではそんな時間的混沌が季語と合わさって不思議な世界を紡ぎだしている。「春の雨悪魔の舌をぬらしけり」これも寺院の屋根にある彫像なのだろうが、おどろおどろしく長い舌を出して耳まで裂けた口でにやっと笑う悪魔の顔が春の雨の情緒を怪しいものに塗り替えている。『鵬翼』(2009)所収。(三宅やよい)




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