「脱ゆとり」なる変な日本語。貧すれば鈍したツケを子供らに回すな。(哲




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April 0142010

 春園のホースむくむく水通す

                           西東三鬼

翹、雪柳、桜、と花々は咲き乱れ、木々の枝からは薄緑の芽がそこここに顔を出している。見渡せば柔らかな春の空気に明るく活気づいた景色が目を楽しませてくれる春の園、だのにこの俳人は地面に投げ出されたホースにじっと目を凝らしている。心臓の鼓動を伝える血管のように水の膨らみを伝えてうねるホース。「むくむく」と形容されたホースが生き物のようだ。三鬼の視線に捉えられると「春の園」も美しさや華やかさを演出するものではなく生々しく過剰な生命力が吹きだまった場所に思えてしまう。三鬼はともすれば俳句の器に収まりきれないこうした自分の資質を持て余したのかもしれない。戦後、三鬼の誓子への傾倒について高柳重信は「とかく俳句から逸脱してしまいそうな彼の言葉の飛翔力に対し、それは、とりあえず、たしかな俳句の原器であった」と述べている。それにしても亡くなった日がエープリル・フールとは、一報を受けた人たちは唖然としただろう。自分の死さえ茶化してしまったような三鬼の在りようは最後まで俳句の尋常をはみ出していたように思う。『西東三鬼集』(1984)所収。(三宅やよい)


March 3132010

 一二三四五六七八桜貝

                           角田竹冷

んな句もありなんですなあ。どう読めばいいの? 慌てるなかれ、「ひぃふぅみ/よいつむななや/さくらがい」と読めば、れっきとした有季定形である。本人はどんなふうに詠んだのだろうか? 竹冷は安政四年生まれ、大正八年に六十二歳で亡くなった。政界で活躍した人だが、かたわら尾崎紅葉らと「秋声会」という句会で活躍したという。こういう遊びごころの句を、最近あまり見かけないのはちょっと淋しい。遊びごころのなかにもちゃんと春がとらえられている。春の遠浅の渚あたりで遊んでいて、薄紅色の小さくてきれいな桜貝を一つ二つ三つ……と見つけたのだろう。いかにも春らしい陽気のなかで、気持ちも軽快にはずんでいるように思われる。ここで、「時そば」という落語を思い出した。屋台でそばを食べ終わった男が勘定の段になって、「銭ぁ、こまけぇんだ。手ぇ出してくんな」と言って、「ひぃふぅみぃよいつむななや、今何どきだ?」と途中で時を聞き一文ごまかすお笑い。一茶には「初雪や一二三四五六人」という句があり、万太郎には「一句二句三句四句五句枯野の句」があるという。なあるほどねえ。それぞれ「初雪」「枯野」がきちんと決まっている。たまたま最新の「船団」八十四号を読んでいたら、こんな句に出くわした。「十二月三四五六七八日」(雅彦)。結城昌治『俳句は下手でかまわない』(1997)所載。(八木忠栄)


March 3032010

 目の前をよぎりし蝶のもう遥か

                           星野高士

に付けられる副詞の定番は「ひらひら」。意外なところで「ぱたぱた」。また旧仮名の「てふてふ」も平安時代には文字通り「tefu-tefu」と発音していたというから、これこそ蝶の羽の動きそのものを表していたのだろう。しかし、実際の蝶は、モンシロチョウで時速9キロ出すというから、どちらかというと「すーっ」に近い。最速の蝶タイムを見るとタイワンアオバセセリという種が時速30キロとあって、これは原付の制限速度と同じ。あきらかに「ぴゅーっ」であろう。ところで、ある雑誌に「時速9キロでジョギングすると脳が活性化されさまざまな機能がアップし、さらに心の安定も得られる速度」という記事を見かけた。それでは、モンシロチョウに付いていけば、この効能が得られるのかと思うと、なんだか究極のダイエットとして紹介してみたくなる。というように、思わずロマンチック路線へと誘導されてしまいがちの蝶だが、実は相当たくましく、海上を1000キロも休まず飛行する強者もいる。たしかに以前クチナシの木についた芋虫を育てたことがあるが、その食欲ときたら凄まじいもので、さらにサナギになれば体内では想像もつかないバージョンアップをしてのける。掲句では下五「もう遥か」のスピード感とともに、句全体から漂う得体の知れない不安のようなものは、従来の蝶に植え付けられたイメージと実体との落差であるように思うのだ。『顔』(2010)所収。(土肥あき子)




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