球春到来。足腰がやや覚束ないので一人で球場に行くのは危ないかな。(哲




2010ソスN3ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2032010

 万華鏡廻すごとくに囀れり

                           岡田日郎

の句とは『俳句・俳景 山の四季』(1997)という本で出会った。作者は、四十年かけて「日本百名山」を踏破されたという。この句に並んで〈囀りの中絶叫の鳥ありし〉。囀りと絶叫、意表をつかれやや驚きながらも、そこには圧倒的な生きものの音が感じられる。その迫力とはまた違った掲出句。鮮やな万華鏡から連想される囀りは、春の輝きに満ちている。万華鏡収集が趣味、という友人が、「万華鏡って、二度と同じ模様が見られないところが好き」と言っていた。確かになあ、と思って覗いていると、その美しさは不思議で儚い。まして命あるものは、音となり形となって存在しているこの瞬間、突然消えてしまってもなんの不思議もない。あたりまえのように廻ってくる春も、二度と同じ春はなく、春が廻ってくることが、いつかあたりまえのことではなくなるのかもしれない、などと思いながら、ガラスの万華鏡で久しぶりに窓の外を覗いてみた。(今井肖子)


March 1932010

 蘂だけの梅猛猛し風の中

                           高橋睦郎

句は草冠の無い「しべ」。命あるものの盛りが過ぎて崩れていく途中のかたちの美しさを愛でるのは日本的美意識特有のものだろう。「猛々しさ」も命の肯定。滅びゆく肉体を意識しつつ想念はさらに燃え盛る人間という比喩にすんなりと入っていける。こんな句は自分の命の果てが実感できない年齢の頃は詠えない。「美しさ」は思いつくかも知れないが。「猛猛しさ」はそれを憧憬するような年齢になって初めて詠える言葉である。『遊行』(2006)所収。(今井 聖)


March 1832010

 パジャマから出てパジャマへ帰る遅日

                           山本純子

分の日も近づき東京もだんだんと日の暮が遅くなっている。仕事を終えてビルを出ても街がまだ明るいのがうれしい。パジャマのままで朝食をとり、出勤ぎりぎりに背広に着かえてあたふたと出てゆき、帰ってきてから普段の服へ着替える間もなくお風呂に入ってそのままパジャマになってしまう忙しいお父さんたち。背広とパジャマの入れ替わりでほとんど事が終わってしまう。たまたま早く帰ってもいつもの習慣でパジャマになってまずはビールと食卓についてテレビのスイッチを入れる。外はとみるとだいぶ暮れ方が遅くなったせいかまだまだ明るい。それなのに、早々とパジャマ姿になっているのがどこかおかしい。それにしても「遅日」という言葉にパジャマという軽快な響きがこんなに心地よいとは、この句を読んでの発見。夜のくつろぎの時間を過ごすのに部屋着派とパジャマ派がいるだろうけど、パジャマ派には過ごしやすいこれからの暖かさである。『カヌー干す』(2009)所収。(三宅やよい)




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