あれからもう65年か。いまだに焼け爛れた東京の空が思い出される。




2010ソスN3ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1032010

 烏賊の足噛みしめて呑む春の雨

                           寺田眉天

うまでもなく「烏賊の足」は飲み屋などでは「ゲソ」と呼ばれる。もともと鮨屋で「ゲソ(下足)」と呼ばれていた。煮てよし、焼いてよし、揚げてよし、ナマでもよし。この「ゲソ」なるもののおいしさは格別である。コレステロールが高いのなんのと言われても、つい気軽に注文してしまう。なかなかやめられない。とりわけ酒のつまみとして呑ンベえにはこたえられない! じっくり噛みしめることによって、海の香にとどまらず、その烏賊の氏素姓までがしのばれるような気がしてくる。掲出句は大勢でワイワイ宴会をしているというより、一人静かに居酒屋のカウンターで、とりあえず注文した「烏賊の足」(「ゲソ」とせず、こう呼んだところに烏賊に対する作者の敬愛を読みとりたい)をしみじみ噛みしめながら、独酌しているのだろう。外は小降りの春の雨。ーそんな風情を勝手に想像させてくれる。「烏賊の足」は居酒屋によく似合うつまみである。わけもなく、それとなく、酒を愛するオトナのうれしい酒のひとときが伝わってくる。眉天は寺田博。文芸誌「文芸」「作品」「海燕」の往年の名編集長だった。自らの著書に『ちゃんばら回想』『昼間の酒宴』他がある。この句、まさに「昼間のひとり酒宴」と読みとりたい。他に「雷(いかづち)の暴れ打ちして涼夜かな」がある。眞鍋呉夫・那珂太郎らの「雹の会」に属す。『雹』巻之捌(2007)所収。(八木忠栄)

[編集部より]作者の寺田博氏は、三月五日に逝去されました。76歳。謹んでお悔やみ申しあげます。


March 0932010

 枯るる草よりも冷たく草萌ゆる

                           金原知紀

読してはっとさせる俳句がある。掲句はまず「枯れ」を意識させたあとで、「草萌え」を見せる。そして光りを跳ね返すような生命感あふれる若草が冷たいというのだ。振り返って比較すれば、たしかにやわらかに日を吸う枯れ草の方がふっくらとあたたかいだろう。ありのままでありながら、その揺さぶりに読者は立ちすくむ。そして、発見の手柄にのみ満足してしまいがちであるなかで、掲句には春とはおしなべてあたたかなものであるという図式をみごとにひっくり返しながら、なおかつ鋭い草の力強い芽吹きが見えるという、ものごとの本質を言い得ていることが俳句として成立させる力となっている。春の息吹きにある健やかな成長とは、滑らかで温もりあるものにばかり目がいきがちだが、他者を押しのけるようなごつごつと冷たい乱暴な一面も、たしかにこの季節にはある。春という節目を通り過ぎた者だけが分かる、懐かしく甘酸っぱい冷たさなのかもしれない。集中の〈割るるとき追ひつく重み寒卵〉にも、発見とともに納得の実感がある。『白色』(2009)所収。(土肥あき子)


March 0832010

 子猫かなパルテノンなる陽だまりに

                           下山田禮子

外詠は難しい。定住者ならばまだしも、観光の旅などの短期間での見聞は、現場での興奮もあってなかなかその地を客観化できないからだ。写真についても、同じことが言えるだろう。作者に同行していない読者には、何を詠んでいるのか、そのポイントがつかみにくい作品が多い。そのあたり、国内の句ならば、季語を通じることにより、知らない土地のことでもかなりの程度の理解は可能だ。そこにツールとしての季語の利点がある。掲句の季語は「子猫」だけれど、このように日本でも身近な動物が詠まれると、異国の光景もぐっと親しく感じられてくる。悠久の趣を持つパルテノン神殿とまだ足元のおぼつかない子猫との取り合わせには、生きとし生けるものとしての私たちを微笑させると同時に、どこかにふっと無常観を誘い出されるようなところがある。時間を超越した宮殿と有限の時間しか生きられないこの子猫、そして作者も私たちも……。俳句の装置がそう思わせるわけだが、彼地でのこの光景は珍しいものではない。ギリシアはいわば犬猫天国ゆえ、法隆寺の庭に猫がいるのとはわけが違い、これは極めてありふれた光景なのであり、ありふれていないのはこれを句として切り取った作者の目であることに留意して読む必要はある。私がアテネに行ったのは、もう三十数年も前のこと。ほとんど変わらないのだろうな、あの頃と。『風の円柱』(2009)所収。(清水哲男)




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