エチオピアは多言語国。びわ湖優勝者へのややこしインタビュー。(哲




2010ソスN3ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0832010

 子猫かなパルテノンなる陽だまりに

                           下山田禮子

外詠は難しい。定住者ならばまだしも、観光の旅などの短期間での見聞は、現場での興奮もあってなかなかその地を客観化できないからだ。写真についても、同じことが言えるだろう。作者に同行していない読者には、何を詠んでいるのか、そのポイントがつかみにくい作品が多い。そのあたり、国内の句ならば、季語を通じることにより、知らない土地のことでもかなりの程度の理解は可能だ。そこにツールとしての季語の利点がある。掲句の季語は「子猫」だけれど、このように日本でも身近な動物が詠まれると、異国の光景もぐっと親しく感じられてくる。悠久の趣を持つパルテノン神殿とまだ足元のおぼつかない子猫との取り合わせには、生きとし生けるものとしての私たちを微笑させると同時に、どこかにふっと無常観を誘い出されるようなところがある。時間を超越した宮殿と有限の時間しか生きられないこの子猫、そして作者も私たちも……。俳句の装置がそう思わせるわけだが、彼地でのこの光景は珍しいものではない。ギリシアはいわば犬猫天国ゆえ、法隆寺の庭に猫がいるのとはわけが違い、これは極めてありふれた光景なのであり、ありふれていないのはこれを句として切り取った作者の目であることに留意して読む必要はある。私がアテネに行ったのは、もう三十数年も前のこと。ほとんど変わらないのだろうな、あの頃と。『風の円柱』(2009)所収。(清水哲男)


March 0732010

 片町にさらさ染むるや春の風

                           与謝蕪村

の風が、今にも吹いてきそうなさわやかな句です。「片町」「さらさ」「染むる」と、どの語をとっても、句のなかにしっくりと当てはまっています。「片町」というのは、道の片側だけに家が並んでいることを言います。なるほど、残りの片方が空き地であったり、野原であったりという風景は、今までにも見たことはあります。しかし、そんな風景にこれほどきれいな名前が付いているのだということを、知りませんでした。片側だけ、という状態の不安定さが、徐々にわたしたちに傾いてきて、言葉の魅力を増しているのかもしれません。「さらさ」は漢字で書けば「更紗」。ことさらひらがなで書いたのは、音の響きを強調したかったのでしょうか。さらさらと、川のように滑らかに町をなでてゆく風を、確かに連想させてくれます。風が町全体を染め上げている。そんなふうにも感じます。『俳句大観』(1971・明治書院)所載。(松下育男)


March 0632010

 蟻出るやごうごうと鳴る穴の中

                           村上鬼城

日は啓蟄。ということで、啓蟄の句をあれこれ見ていたところ、手元の歳時記にこの句が。蟻穴を出づ、の句ということだろう。蛙などが実際冬眠しているところを見たことはないが、そうそう集団でいることはない気がする。しかし蟻は、もともと集団生活をしているわけだから、あのくねくねと緻密に作られた巣のそこここで、かたまって休んでいるだろうと思われる。暖かくなり、まず誰かが目覚める。蟻にも個人差があって、ナマケモノが三分の一はいるというが、生来は働き者。あ、起きなくちゃ、みんな起きろ〜働くぞ〜、といった気配が、あっという間に巣全体に、かなりの勢いで伝播するに違いない。さっきまでの静かな巣が、猛然と騒がしくなる様が、ごうごう、なのか。一読した時は、土中の穴を揺り動かす得も言われぬ地球の音のようなものをイメージしたが、具体的な蟻の様子を想像してもおもしろいかなと。いずれにせよ、決して目の当たりにすることのできない土中のあれこれを思うと不思議で楽しい。原句の「ごうごう」は、くり返し記号。「虚子編 新歳時記 増訂版」(1995・三省堂)所載。(今井肖子)




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