iPadの発売日は噂通りに一ヶ月ずれ込み、4月下旬になるようだ。(哲




2010ソスN3ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0732010

 片町にさらさ染むるや春の風

                           与謝蕪村

の風が、今にも吹いてきそうなさわやかな句です。「片町」「さらさ」「染むる」と、どの語をとっても、句のなかにしっくりと当てはまっています。「片町」というのは、道の片側だけに家が並んでいることを言います。なるほど、残りの片方が空き地であったり、野原であったりという風景は、今までにも見たことはあります。しかし、そんな風景にこれほどきれいな名前が付いているのだということを、知りませんでした。片側だけ、という状態の不安定さが、徐々にわたしたちに傾いてきて、言葉の魅力を増しているのかもしれません。「さらさ」は漢字で書けば「更紗」。ことさらひらがなで書いたのは、音の響きを強調したかったのでしょうか。さらさらと、川のように滑らかに町をなでてゆく風を、確かに連想させてくれます。風が町全体を染め上げている。そんなふうにも感じます。『俳句大観』(1971・明治書院)所載。(松下育男)


March 0632010

 蟻出るやごうごうと鳴る穴の中

                           村上鬼城

日は啓蟄。ということで、啓蟄の句をあれこれ見ていたところ、手元の歳時記にこの句が。蟻穴を出づ、の句ということだろう。蛙などが実際冬眠しているところを見たことはないが、そうそう集団でいることはない気がする。しかし蟻は、もともと集団生活をしているわけだから、あのくねくねと緻密に作られた巣のそこここで、かたまって休んでいるだろうと思われる。暖かくなり、まず誰かが目覚める。蟻にも個人差があって、ナマケモノが三分の一はいるというが、生来は働き者。あ、起きなくちゃ、みんな起きろ〜働くぞ〜、といった気配が、あっという間に巣全体に、かなりの勢いで伝播するに違いない。さっきまでの静かな巣が、猛然と騒がしくなる様が、ごうごう、なのか。一読した時は、土中の穴を揺り動かす得も言われぬ地球の音のようなものをイメージしたが、具体的な蟻の様子を想像してもおもしろいかなと。いずれにせよ、決して目の当たりにすることのできない土中のあれこれを思うと不思議で楽しい。原句の「ごうごう」は、くり返し記号。「虚子編 新歳時記 増訂版」(1995・三省堂)所載。(今井肖子)


March 0532010

 山桜の家で児を産み銅色

                           たむらちせい

にはあかがねのルビあり。山桜が咲いている山間の家で児を産んで銅色の肉体をしている女。そういう設定である。山桜が咲いている家だからといって山間に在るとは限らないが作者の思いの中にはおそらくそういう土着の生活がある。銅色を、生まれてきた赤子の色と取る読み方もあろうが、そうすると、銅色の肌をして生まれてきた赤子には別の物語を被せなくてはならなくなる。赤子にとっては異様な色だからだ。産んだ側が銅色なら、それは日焼け、労働焼けの逞しさということで一般性を基盤に置いて考えることができる。リアルのためには一般性も大事なのだ。近似するテーマを持つ句として例えば金子兜太の「怒気の早さで飯食う一番鶏の土間」がある。山桜のある家で児を産んで育てている銅色の肌をした逞しい女が早朝どんぶりに山盛りに盛った飯を、その女の亭主が怒気を孕むかのような食いっぷりでがっついているという物語を考えてみれば、この二句の世界の共通性に納得がいく。俳誌「青群」(2010年春号)所載。(今井 聖)




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