さくら三月。東京などでは下旬に開花。おだやかな日々でありますよう。(哲




2010ソスN3ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0132010

 物置の自転車出して北の春

                           高橋実千代

人の斎藤悦子さんから『かんちゃんと俳句の仲間たち』(2010・自然食通信社)というご本を頂戴した。学生時代の友人が集まって、十年ほどつづけているインターネット句会のアンソロジーだ。「かんちゃん」は掲句の作者の学生時代からの愛称で、昨年急逝されたことから、残ったメンバーが追悼の意も込めて編んだ一本である。俳句の専門家がいるわけでもなく、志す人もいるわけじゃない。とかく疎遠になりがちな若き日の仲間たちと、俳句をいわばツールとして交流しようという発想からはじまったグループなのだ。あえて言うならば、交流が主で、俳句は従。しかし元来俳句の座にはそういう側面があるのであり、そこがまた俳句という短い詩型ゆえの利点でもあるだろう。句意は明瞭すぎるほどに明瞭だ。ただそうかといって、この句に表現された春到来の喜びの本当のところは、作者のような北国(北海道)出身者でなければわかるまい。東京のように真冬でも自転車に乗れる環境に暮らしていると、その他の季節の変化にも劇的に対応することは、まずありえない。俳句的にはまことに貧弱な土地柄というのが、東京などの大都会なのだ。そういうことを合わせ思いながら読むと、この句の素朴な詠み方に内包されている技術を超えた(あるいはそんなことに頓着しない)句作の楽しさが感じられてくる。良い本を読ませていただいた。(清水哲男)


February 2822010

 白菜の孤独 太陽を見送つている

                           吉岡禅寺洞

菜は冬の季語ですが、「白菜の孤独」といわれれば、どんな季節にも所属させる必要はないのかなと思います。これを句と見るか、あるいは一行詩と見るかについては、人それぞれに考え方は異なるでしょう。でも、ジャンルがあって後の作品、などというものは本来あるはずもなく、どちらだろうが読むものの感性に触れてくるものがあれば、それでかまわないわけです。真ん中にある空白は、現代詩であるならば助詞が入ったのかもしれません。あるいは句であるならば、取り払われるべきものなのでしょう。ゆるんだ助詞を入れることを拒み、しかしここにはしっかりとしたアキが必要なのだという、強い意志が感じられます。「見送っている」という、遠いまなざしのためにも、この距離は必要だったのかもしれません。太陽を見送るほどの孤独には、どこか狂気に近いものを感じます。それはおそらく、この句の雰囲気が、吉増剛造の詩の一節、「彫刻刀が、朝狂って、立ち上がる」を思い出させるからかもしれません。『俳句大観』(1971・明治書院)所載。(松下育男)


February 2722010

 草萌えて黒き鳥見ることもなく

                           横山白虹

萌には草の青、下萌には土の黒をより強く感じる、と言われたことがある。下萌というと、星野立子の〈下萌えて土中に楽のおこりたる〉〈下萌えぬ人間それに従ひぬ〉を思うが、そこには今まさに草萌えんとする大地の力がある。草萌は、二つ並んだ草冠がかすかにそよいで、文字通り明るい。掲出句の黒き鳥の代表は、カラスだろう。枯木に鴉、というと冬の象徴だが、音の少ない冬の公園などでは、確かにカラスのばさばさという羽音がいっそう大きく聞こえ、見上げると冬空より黒いその姿が寒々しい。やがて、水鳥が光をまき散らしながら準備体操を始め、尖った公園の風景も少しずつゆるんでくると、カラスもまた春の鴉となってお互いを呼び合うようになる。黒き鳥、が象徴する閉塞感が、外から、また身の内からゆっくりとほどけてゆく早春である。『横山白虹全句集』(1985)所収。(今井肖子)




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