気分転換に「江戸東京たてもの園」。新しすぎる古いチンチン電車。(哲




2010ソスN2ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2722010

 草萌えて黒き鳥見ることもなく

                           横山白虹

萌には草の青、下萌には土の黒をより強く感じる、と言われたことがある。下萌というと、星野立子の〈下萌えて土中に楽のおこりたる〉〈下萌えぬ人間それに従ひぬ〉を思うが、そこには今まさに草萌えんとする大地の力がある。草萌は、二つ並んだ草冠がかすかにそよいで、文字通り明るい。掲出句の黒き鳥の代表は、カラスだろう。枯木に鴉、というと冬の象徴だが、音の少ない冬の公園などでは、確かにカラスのばさばさという羽音がいっそう大きく聞こえ、見上げると冬空より黒いその姿が寒々しい。やがて、水鳥が光をまき散らしながら準備体操を始め、尖った公園の風景も少しずつゆるんでくると、カラスもまた春の鴉となってお互いを呼び合うようになる。黒き鳥、が象徴する閉塞感が、外から、また身の内からゆっくりとほどけてゆく早春である。『横山白虹全句集』(1985)所収。(今井肖子)


February 2622010

 幽霊が写って通るステンレス 

                           池田澄子

々に何々が映る、或いは写るのは俳句の骨法のひとつ。物をして語らしめるということ、その手段として物と物との関係をあらしめることが、短い形を生かす方法であるとしてこの形が多用されてきた。その場合は被写体とそれが写る場所(素材)の関係が「詩」の全てとなる。水面や窓などの常套的な「場所」に対して作者はステンレスというこれまでの情緒にない素材を用いた。そして、その光る白い色彩に「幽霊」を喩えた。幽霊のごとき色彩であるから、これは直喩の句。見た感じをそのまま書いた「写生句」である。「写生」とは見たまま感じたまま、そのままを詠うこと。それが子規の「写生」であったはずなのに、いつからか「写生」が俳句的情緒を必要条件とするようになった。こういう句が「写生」の原点を教えてくれる。この句が無季の句であるか、「幽霊」が季語になるのか、季感をもつのか、そんなことは末梢のこと。『ゆく船』(2000)所収。(今井 聖)


February 2522010

 江ノ島のガソリン臭き猫の恋

                           須藤 徹

夜も近所の野良猫や飼い猫たちが入り乱れて悩ましい声で呼び合っている。まだ寒いじゃないか、と蒲団にもぐりつつ思うけど鳴き始める猫たちは本能で春を感知しているのだろう。「恋猫の恋する猫で押し通す」(永田耕衣)の句にあるようにひたすらに恋に打ち込む猫がいとおしくもあり、滑稽でもある。家に猫を飼う人達にとっては気が揉める時節の到来だろう。春浅き江の島に車を飛ばして押し寄せてくる若いカップル。その車の下に潜む恋猫。その見つけどころに、「ガソリン臭き」とかぶせたところに現実味が漂う。それでいて猫の恋がちょっぴり抒情的であるのは背景に潮の香りが広がるからか、その二つの匂いが入り混じって忘れ難い印象を残す。掲句が作られてから10数年経過した今、江の島のバイク族も車もめっきり少なくなったことだろう。恋も体当たりだった行動派からメールやパソコンで恋情をやりとりする若者たちへ。匂いもなくどこか無機質なその恋愛と猫の恋をだぶらせようとしても、もはや遠いかもしれない。『幻奏録』(1995)所収。(三宅やよい)




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