欧州で国家が禁酒キャンペーン。国民を働きロボットにしたいわけだ。(哲




2010ソスN2ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1922010

 親雀巣を出て遠く志す

                           山口誓子

子の句は句の立姿が美しい。僕にはそう見える。どんなにきちんと音律が整っていても類型的な情緒が盛られていては、ああ、また諷詠ですか、古いモダンですかと思ってしまう。作者としてのあなたはほんとうにそれで新しい自分がその一句に刻印されていると思うのですかと読者としての僕が問うとき誓子の句の多くはこれが私の考えている俳句ですと返してくれる。僕はそれに納得がいき、その返答を誓子の型の中にみる。そのとき美しいと思うのだ。親雀は子育ての本能からか、餌を求めて遠くまで行動範囲を広げる。校庭のような広いところでいつも餌をやっているとわかる。パン屑を咥えては巣のある一定方向にとび、しばらくしてまた帰ってくる。子育てのときの距離が長いのは、同じ雀が帰ってくる時間でわかる。見える事柄の「写生」から入って、次に妻子をもってこそ一人前だというような寓意に入る。最初から寓意や批評性を意図する作品と、結果的に寓意に到る作品。その順序は俳人の品位と才能にかかっている。『遠星』(1945)所収。(今井 聖)


February 1822010

 人を見る如く椿の花円く

                           岸本尚毅

ぶりな侘介が咲き終わり、これからは華やかな椿の出番になる。椿は古くから日本で愛されてきた花。植物辞典によると花の真ん中の雄蕊の基部と花弁が合着しているので、咲き切った花の形のまま落ちるとある。「赤い椿白い椿と落ちにけり」(河東碧梧桐)「落椿とは突然に華やげる」(稲畑汀子)のようにどちらかというと咲いている姿より落ちる姿が俳句では詠まれることが多かったように思う。くっきりと咲いている椿は自己主張が強すぎて詠みにくいのかもしれない。掲句では花を見るのではなく花から見つめられている、と見方を逆転させることで黄色く大きな花芯を持つ椿の存在感と気配を感じさせる。最後の「円く」という言葉がこの花の持つ柔らかさと温かみを表しているようだ。『感謝』(2009)所収。(三宅やよい)


February 1722010

 冬籠或は留守といはせけり

                           会津八一

の寒さを避け温かい家のなかにこもって、冬をやり過ごすのが「冬籠」だけれど、「雪籠」とも言う。私などのように雪国に生まれ育った者には、軒下にしっかり雪囲いを張りめぐらせた家のなかで、身を縮める「雪籠」のほうにより実感がある。雪国新潟に生まれた八一も同様だったかもしれない。雪はともかく、家にこもって寒い冬をやり過ごすというこの季語は、今の時代にはとっくに死語になってしまっているようだ。けれども、とても情感のある好きな言葉ゆえつい使いたくなる。「或(あるい)は」は「どうかすると」とか「ある場合は」という意味だから、家人をして「先生は今留守です」と言わせて、居留守を使うことがあるのであろう。何をしているにせよ、していないにせよ、こもっている時の来客への応対は面倒くさい。そんな時は「留守」を許していただきたいね。居留守と言えば、私の大好きなエピソードがある。加藤郁乎が師とあおいでいた吉田一穂を、ある日自宅に訪ねた時のこと。玄関で「先生!」と来訪を告げると、家のなかから「吉田はおらん!」と本人が大声で答えた。奥様が出て来て「そんなわけですから、また出直して来てください」と頭を下げられたという。いかにも吉田一穂。今どきは勧誘の電話だって容赦なく入り込んでくるのだから、始末が悪い。八一には「凩や雲吹き落す佐渡の海」の句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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