20〜30代ホームレス急増。授業料無料化の行く手が真っ暗とはね。(哲




2010N212句(前日までの二句を含む)

February 1222010

 弾道や静かに暮るる松の花

                           秋山牧車

車はぼくしゃ。戦後すぐ「寒雷」の編集長。その後、長く同人会長を勤めた。昭和17年に加藤楸邨に師事。陸軍中佐。大本営陸軍部報道部員として「大本営発表」に関わる。戦後加藤楸邨は中村草田男から、軍高官を自誌に置いて便宜を図ってもらったと非難を受ける。いわゆる戦争責任の追及である。しかもその高官を戦後も同人として遇しているのは何故かとの問であった。高官とは秋山牧車とその兄本田功中佐、及び、清水清山(せいざん)中将。軍人高官だからといって側に置いて便宜を図ったもらったことはないと楸邨は反論。(当時「寒雷」にはさまざまな職業、主義主張を持った人々がいた。例えば赤城さかえ、古澤太穂などのコミュニストもいた)その言葉を裏付けるように、楸邨は戦後もこの三人を「寒雷」の仲間として他の同人、会員と同様に扱った。これには楸邨の意地も感じる。この句は大戦末期、敗色濃いマニラに陸軍報道部長として派遣され、後に処刑される山下奉文大将と山中に立てこもった折の句。「弾道や」の危機感と中七下五の静謐な自然との対照が武人としての「胆」を感じさせる。『山岳州』(1974)所収。(今井 聖)


February 1122010

 動き出す春あけぼのの電気釜

                           小久保佳世子

はあけぼの やうやう白くなりゆく山際すこしあかりて―と、国語の時間に繰り返し暗唱させられたそのむかしから、春とあけぼのは私の中でぴったりセットになっている。夏の朝は水の匂いがするけど、春の夜明けはほんわかとした布の手触り、ふわふわと期待に満ちたピンク色の時間帯だ。掲句のように我が家でも最初に活動を始めるのは炊飯器なのだけど、こう書かれてみると電気釜が生き物のようでおかしい。「電気釜」にかかる「春あけぼの」の古典的言葉の効果でタイマーが入ってしゅっしゅっと動き始める炊飯器の蒸気がうすくたなびく東雲のようだ。こうした言葉の斡旋で見慣れた台所の朝の光景を一変させている。書きぶりは真面目だけど、何かしらおかしみを含んだ作品に上質なユーモアのセンスを感じる。「謝る木万歳する木大黄砂」「春の港浮雲と我を積み残し」『アングル』(2009)所収。(三宅やよい)


February 1022010

 猪突して返り討たれし句会かな

                           多田道太郎

太郎先生が亡くなられて二年余。宇治から東京まで、熱心に参加された余白句会とのかかわりに少々こだわってみたい。「人間ファックス」という奇妙な俳号をもった俳句が、小沢信男さん経由で一九九四年十一月の余白句会に投じられた。そのうちの一句「くしゃみしてではさようなら猫じゃらし」に私は〈人〉を献じた。中上哲夫は〈天〉を。これが道太郎先生の初投句だった。その二回あと、関口芭蕉庵での余白句会にさっそうと登場されたのが、翌年二月十一日(今からちょうど十五年前)のことだった。なんとコム・デ・ギャルソンの洋服に、ロシアの帽子というしゃれた出で立ち。これが句会初参加であったし、宇治からの「討ち入り」であった。このときから俳号は「道草」と改められた。そのときの「待ちましょう蛇穴を出て橋たもと」には、辛うじて清水昶が〈人〉を投じただけだった。「待ちましょう」は井川博年の同題詩集への挨拶だったわけだが、博年本人も無視してしまった。他の三句も哀れ、御一同に無視されてしまったのだった。掲出句はその句会のことを詠んだもので、「返り討ち」の口惜しさも何のその、ユーモラスな自嘲のお手並みはさすがである。「句会かな」とさらりとしめくくって、余裕さえ感じられる。句集には「余白句会」の章に「一九九五年二月十一日」の日付入りで、当日投じた三句と一緒に収められている。道草先生の名誉のために申し添えておくと、その後の句会で「袂より椿とりだす闇屋かな」という怪しげな句で、ぶっちぎりの〈天〉を獲得している。『多田道太郎句集』(2002)所収。(八木忠栄)




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