図書館で借りたのはよいが、返却期限までに読みきれなかった本が数冊。(哲




2010ソスN2ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0922010

 切断されし指を感ずる木々芽吹く

                           ドゥーグル・J・リンズィー

春を過ぎ、光りが存分にあふれる頃になると、あちらこちらの梢の先がほの赤く染まっているのを意識する。木々の芽吹きを思うと、亀が手足を出すにも似て、もそもそっとくすぐったい心地となる。葉を落し、ふたたび芽吹く木の循環。幹を身体にたとえれば、払い落した指の場所からまた指先が生えてくるようだと、言われてみれば確かにそうで、前述の亀の想像よりずっと実感を伴う感触に襲われる。海洋学者でもある作者は、切断されたのち、いともたやすく再生することができるタコやヒトデなどの海洋生物と向き合っており、木々もまたそれほど遠くない生きものに映っているのかもしれない。引きかえ、ほとんど再生不能な人間が苦しいほど不器用に生きているように見えてくる。〈胎盤の出来るころなり薄ごほり〉には第二子懐妊の前書がある。日々の多くを海の上(というか深海)で過ごしている作者の遠隔地からの季感の訴えには、妻や子の暮らす地上への強い思いとともにあるようだ。〈我が船の水脈を鯨が乱しけり〉『出航』(2008)所収。(土肥あき子)


February 0822010

 春うつらくすりの妻の名で呼ばれ

                           的野 雄

院では患者当人ではなくても、付き添いや見舞い客などの人を患者のフルネームで呼ぶ場合が多い。今回の父の入院で、私も何度も父の名で呼びかけられた。慣れてしまえば何ということもないのだろうが、なんだか妙な心持ちになってしまう。句の作者は、妻の薬を受け取りにきたのだろう。だいぶ待たされるので、つい「うつら」としてしまった。で、ようやく窓口から呼ばれたときには妻の名前なものだから、「うつら」の頭ではすぐには反応できない。呼ばれたような気もするのだが……と逡巡するうちに、今度ははっきりと妻のフルネームが聞こえて、あわてて立ち上がったのである。微苦笑を誘われる句だけれど、私も作者と似た環境にあるので、微苦笑とともに自然に溜息も出てくる。句集には「主夫」という言葉が何度も出てくるから、奥様はかなり長患いのようだ。同じ句集に「想定外妻に梨剥く晩年など」があり、また「逃亡めく主夫に正月と言うべしや」がある。お大切に。『円宙』(2009)所収。(清水哲男)


February 0722010

 しら魚や水もつまめばつままるる

                           鶴海一漁

しかに、しら魚の体の色は透明なのだなと、あらためて驚いてしまいます。でもそれを言うなら、水が透明なのだってずいぶん変わったことであるわけです。透明なものがこの世にあるということは、わかっているようでどこかわからないところがあります。水の中に指先を入れて、なにもないところを二つの指ではさんで持ち上げれば、それはしら魚だった、ということをこの句は詠っているのでしょうか。でも読んでいるとつい、水そのものをつまむことができるような錯覚をしてしまいます。柔らかな液体をつまむ、という行為の美しさに、一瞬うっとりとしてしまいます。目をぐっと近づけて、この句をじっくりと見つめてしまうのは、だから仕方のないことかもしれません。読者を惹きつける、目に見えないものがそっとかけられているのではないのかと。『俳句大観』(1971・明治書院)所載。(松下育男)




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