年の数だけ豆を食べたのは十歳くらいまでだったろう。鬼はソトーッ。(哲




2010ソスN2ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0322010

 節分や灰をならしてしづごころ

                           久保田万太郎

の「灰」はもちろん火鉢の灰であろう。節分とはいえ、まだまだ寒い昨日今日である。夜のしじまをぬって、どこやらから「福は内!」「鬼は外!」の声が遠く近く聞こえてくる。(もっとも、近年は「鬼は外!」とは言わないようだ。おもしろくない!)その声に耳かたむけながら、何をするでもなく手もと不如意に、所在なくひとり静かにそっと火鉢の灰をならしている。あるいは、家人が別の部屋で豆まきをしている、と想定してみると、家人と自分との対比がおもしろい。ーーそんな図が見えてくる句である。火鉢など今や骨董品となってしまったが、ソファーに寝そべって埒もないテレビ番組に見入っているよりも、ずっと詩情がただよってくるし、万太郎らしい抒情的色彩が濃く感じられる。「家常生活に根ざした抒情的な即興詩」というのが、俳句に対する万太郎の信条だったと言われる。ほかに「節分やきのふの雨の水たまり」という一句もある。そして「春立つやあかつきの闇ほぐれつつ」の句もある。明日は立春。平井照敏編『新歳時記』(1996)所載。(八木忠栄)


February 0222010

 人間を信じて冬を静かな象

                           小久保佳世子

という動物はどうしてこうも詩的なのだろうか。地上最大の身体を持ちながら、草食動物特有のやさしげな面差しのせいだろうか。もし、「人間にだまされたあげく、やたら疑い深くなり、最後には暴れる」という大型動物の寓話があるとしたら、主役には虎や熊といったところが採用され、どうしたって象には無理だろう。ついてこいと命令すれば、どんなときでもついてくる賢く、従順で温和というのが象に付けられたイメージだ。掲句は「冬を」で唐突に切れて、「静かな象」へと続く。この不意の静けさが、安らかとも穏やかとも違う感情を引き出している。ここには、あきらめに通じる覚悟や、悟ったような厳粛さはなく、ただひたすらそこにいる動物の姿がある。食べることをやめた象はわずか一日で死に至るのだそうだ。今日も象は人間を信じて黙々と食べ、不慣れな冬を過ごしている。〈太陽は血の色億年後の冬も〉〈また梅が咲いてざらめは綿菓子に〉『アングル』(2010)所収。(土肥あき子)


February 0122010

 海豹のやうな溜息二月なり

                           渡辺乃梨子

月といえば、間近の春を待つ心情を詠んだ句の多いなかで、この句は違う。あわただしく動き回っているうちに、ふと気づけば、もう二月になってしまったのかという焦燥感のあらわれた句だ。だからついて出る溜息もかそけきそれではなくて、さながら「海豹(あざらし)」の鳴き声のように荒々しいものになったというのである。私も父の緊急入院以来、こんな溜息を何度かもらした。もらした瞬間に、喉の奥がごおっという感じで鳴るのである。経過は順調で週末には退院できそうだが、これを幸いと言うにはその後に問題が山積しすぎているからだ。長生きも考えものだな。などと、親不孝な想念も思わずわいてきてしまう。どなたでもそうだろうが、かといって急に介護一辺倒の生活に切り替えるわけにもいかず、しかし現実は容赦なく進行するばかりなのだから、本音のところでははただうろうろおろおろするばかり。我ながら情けないとは思うけれど、出るのは海豹のような溜息ばかりなりである。そして、四日は早や立春。どんな春になるのかなあ。俳誌「梟」(2009年3月号)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます