写真論ばかり読んでいる。いまはロラン・バルトの『明るい部屋』。(哲




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January 2512010

 年老いて火を焚いてをるひとりかな

                           橋上 暁

のダイオキシン騒動以後、住宅地などでの焚火はまったく見られなくなってしまった。昔は朝方や夕暮れ近くには、あちこちの民家の庭先から、落葉やゴミを燃やす細い煙が上がっていたものだった。近づくと、特有のいい匂いがした。その時代の句だろう。焚火をしている人は他人とも解釈できるけれど、私は作者当人と解しておきたい。つまり「年老いて」を実感としたほうが、より孤独の相が深まるからである。この焚火は、盛大なものじゃない。火の勢いも強くはない。ぼそぼそと、少しずつ紙くずなんかを燃やしている。燃やしながらチロチロとした炎や燃えかすを見ているうちに、脈絡もなくさまざまな思いがわいてくる。こうした焚火は遊び気分とは縁のない一種のルーティン・ワークだから、あまり弾むような気持ちは起きてこない。「ああ、オレも年をとったなあ」などと、気分はどうしても内向的になる。呟きのようにわいてくるこうした気分を反芻していると、不意に人間はしょせん「ひとり」なんだという、それこそ実感の穴に転げ落ちてゆく。この「一人」は一人暮らしのそれであってもよいのだが、むしろ家族と同居しているなかでの「ひとり」感としたほうが味わい深い。たそがれどき、むらさきの煙を上げている焚火を見つめながら、このような孤独感に胸を塞がれた人たちも多かったろう。焚火の時間はまた内省の時間でもあったのだ。『未来図歳時記』(2009)所載。(清水哲男)


January 2412010

 武蔵野の雪ころばしか富士の山

                           斉藤徳元

ころばしというのは雪ダルマのことです。たしかに雪ダルマを作るためには、雪を転がして少しずつ大きくしてゆくわけですから、「雪ころばし」というかわいらしい言葉は、適切な名前と言えます。関東地方南部に長年暮らしているわたしは、雪ダルマを作るほどの積雪はめったに経験したことがなく、だからきちんとした雪ダルマなど作った記憶がありません。いつも中途半端にでこぼこで、泥のついた情けないものでした。江戸期の「雪ころばし」は、単に雪を転がして大きくしたもので、目鼻をつけることもなかったようです。だから余計に、遠方にぬっくと立ち尽くす富士山を、雪ダルマに見立てるなどという発想が出てきたのでしょう。冬の富士の気候は厳しく、武蔵野平野に作られた雪ダルマなどという暢気なものではありません。でもそれを言うならもちろん、雪に覆われた冬の生活そのものが日々過酷なものであり、だからこそこのような句で、心だけはほっとしたかったのかもしれません。『俳句大観』(1971・明治書院)所載。(松下育男)


January 2312010

 ガラス戸の遠き夜火事に触れにけり

                           村上鞆彦

事は一年中起きてしまうものだが、空気が乾燥して風が強い冬に多いということで冬季。とはいえ、火事そのものは惨事であり、兼題に出たりすると、火事がどこかであったかしら、と思うのもなにやら後ろめたく、また季感もうすい。「この句はいかにも火事らしい」などと言っても言われても、なんだかなあという気も。その点この句にはまず冬の匂いがある。ひんやりと黒いガラス戸の向こうに見える小さく赤い炎に、思わず指を重ねたのだろうか。平凡な沈黙を破るかのような一点の火。見慣れた夜景が生々しく動きだし、その中に急に人の息づかいを感じてしまう。そして、ガラスから伝わってくる冷たさを指先で共有する時、読み手はまた作者の内なる熱さに触れるような心持ちになるのかもしれない。他に〈コート払ふ手の肌色の動きけり〉〈浮寝鳥よりも静かに画架置かれ〉など、衒わず新鮮な印象。「新撰21」(2009・邑書林)所載。(今井肖子)




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