ソスソスソステ ソスラゑソス句

January 2012010

 どの墓も××家とある寒さかな

                           正津 勉

の暮に墓掃除に行ったり、正月にお参りに出かけることはあっても、一般に寒い時期に墓を訪れる人はなかなかいないだろう。それでなくとも、墓地までは距離があったりして、寒い折に出かけるのはよほどの用がないかぎり、億劫になってしまいがちである。ご先祖様には申しわけないけれど。それにしても墓地は、だいたいどこやら寂しいし寒々しいもの。掲出句にあるごとく、まこと大抵の墓には、宗旨にもよるが「××家」とか「先祖代々之墓」などと刻まれている。「××家」累代の歴史に、束の間の幸せや悲劇があったにせよ、刻まれた文字からは、雪があるないにかかわらず深閑として、冬場には厳しい寒さがいっそう漂う。「公苑墓地」などと称していても、寒いことにかわりはない。家によって一律ではないにしても、墓の姿や刻まれた文字が一様に寒々しく感じられてしまうのは仕方がない。時候の「寒さ」と心理的な「寒さ」とが、下五で重なりあっている。同時に威儀を正しているような凛としたものさえ感じられる句である。この句と同時に「あばら家の明け渡し迫る空つ風」という句がならんでいる。句誌「ににん」に、勉は「歩く人・碧梧桐」を連載している。「ににん」37号(2010)所載。(八木忠栄)


September 1792014

 地球も命も軽しちんちろりん

                           正津 勉

いころ読んだ開高健の『太った』という小説のなかに、「地球が重い重いと言いながら、太ったやないか」と相手を咎めるセリフがあった。もう何十年も忘れることができないでいる言葉である。今も昔も「地球」や「命」は、何よりも貴重だったこと、言うも愚かしい。それらが年々歳々ふわりふわりと軽いものになり、国の内外を問わず危うい状況を呈しつつある。とりわけ近年はどうだい! そのことをいちいち今述べるまでもあるまい。これでは「地球」も「命」も、いつまで安穏としていられるか知れたものではない。草むらでしきりに鳴いているちんちろりん(松虫)に、地球も人も呆れられ嘲笑されても仕方がない。「……軽しちんちろりん」がせつなく身にこたえる。俳味たっぷり風流になど、秋の虫を詠んでなどいられないということ。「ちんちろりん」は『和漢三才図絵』には「鳴く声知呂林古呂林」とある。勉の「虫の秋」五句のうちの一句。他に「がちやがちや我は地球滅亡狂」という句が隣にならぶ。勉らしい詠みっぷり。「榛名団」11号(2014)所載。(八木忠栄)


October 11102015

 稲妻や笑ふ女にただ土下座

                           正津 勉

妻をご神体とする神社があります。群馬県富岡市にある貫前(きぬさき)神社です。神社はふつう、石段を登った先に本殿がありますが、ここは石段を下ります。本殿まで下ってきた石段を見上げると、その向こうはるか上空に稲含山の頂が見えます。太古の人は、稲含山から稲妻が光るのを見て、その雷光が稲を成育させる神、すなわち稲妻として信仰してきました。掲句は、正津氏の女性に対する信仰が如実に戯画化されています。稲妻は、自然界のそれとも、人間界(女性)のそれともとれます。天の轟き、女の怒り。しかも、女は笑っている。ところで、怒りながら笑うことってあり得るだろうか。笑いには、愉快、痛快といった快の発露もあるけれど、嘲笑や冷笑といった不快を示唆する場合もあります。掲句の女は、むしろ、哄笑や高笑いの類で勝利宣言ととれます。女の感情は、上五では怒りの稲妻だが、「や」で切ることで、時間も切れ、感情も切り替わります。この時点で、既に男は土下座している。怒りを発散して、高ぶった気持ちからただ土下座する男を見て、女はニヤリと笑う。この優位は動かない。怒りでこわばっていた頬は、優越感からしだいにゆるみます。やがて、女には、男を許す感情が芽生え始めるのではないでしょうか。ズタズタに傷ついたスネを隠し、ただひたすら土下座する男を見下して、女は観音様に近づいていく。数々の女性問題を穏便に解決してきた正津勉の秘技土下座。他に「春寒や別れ告げられ頬打たれ」。自身を低めて女を立てる。見習いたい。『ににん』(2015秋号)所載。(小笠原高志)




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