旧田中派対検察の泥仕合。そんなことやってる場合か、いまの日本は。(哲




2010ソスN1ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1912010

 松活けて御前がかりの土俵入

                           中沢城子

半戦となり、いよいよ白熱してきた初場所である。「御前掛り(ごぜんがかり)」とは、天皇が観戦する天覧相撲において特別に行われる土俵入りのことをいう。今年は初日の10日が天覧相撲だったが、幕の途中からの観戦だったため御前掛りは行われなかった。御前掛りの土俵入りは、力士全員が正面を向いて整列し、一礼して降りていくことで、貴賓席にお尻を向けない進行になっているのだが、やはり絢爛たる化粧回しが丸い土俵をぐるりと囲む普段の土俵入りの方が美しいと思う。とはいえ、掲句は初場所の特別な日であることの高揚に輝く力士たちが浮かび、青々とした松とのコントラストとともに、神事としての相撲の姿も鮮やかに描いている。昨年、国技館で大相撲を見る機会があったが、目の前で見る力士の若々しい肌と、ぶつかったり投げられたりする際の大きな音にことのほか驚いた。土俵に投げられた力士の肌がみるみる紅潮していくのは、痛さより悔しさからであることが伝わり、取り組みごとの大きなどよめきに巻き込まれるように、思わぬ歓声をあげていた。国技館にある御製記念碑には昭和天皇の〈ひさしくも みざりしすまひ ひとびとと てをたたきつつ みるがたのしさ〉と記されている。満場の一体感こそ、スポーツ観戦の醍醐味なのであろう。タイトルの「明荷(あけに)」とは力士が場所入りや巡業の時に使用する大きな長方形の物入れで、ここに化粧回しや座布団、草履などが入っているという。「明荷は十両以上の関取のみが使用することができるため、力士にとっては憧れと夢のトランクである」とあとがきには書かれている。〈猟犬の臥せば一山息をのむ〉〈女手に打つ釘まがる十二月〉『明荷』(2010)所収。(土肥あき子)


January 1812010

 木葉髪馬鹿は死ななきや直らねえ

                           金子兜太

きだなあ、この句。若い頃には抜け毛など気にもかけないが、歳を重ねるうちに自然に気になるようになる。抜け毛にもだんだん若い日の勢いがなくなってくるので、まさに落ちてきた木の葉のごとしだ。見つめながら「オレもトシ取ったんだなあ」と嘆息の一つも漏れてこようというもの。しかし、この嘆息の落とし所は人さまざまである。草田男のように「木の葉髪文芸永く欺きぬ」と嘆息を深める人もいれば、掲句のようにそれを「ま、しょうがねえか」と磊落に突き放す人もいる。生来の気質の違いも大きかろうが、根底には長い間に培ってきた人生に対する態度の差のほうが大きいと思う。掲句を読んで「いかにも兜太らしいや」と微笑するのは簡単だが、その「兜太らしさ」を一般読者に認知させるまでの困難を、クリエーターならわかるはずである。嘆息の途中に、昔の子供なら誰でも知っていた廣澤虎造『石松代参』の名科白を無造作に放り込むなんてことは、やはり相当の大人でないとできることではない。この無技巧の技巧もまた、人生への向き合い方に拠っているだろう。金子兜太、九十歳。ますますの快進撃を。ああそして、久しぶりに虎造の名調子を聴きたくなってきた。例の「スシ食いねえ…」の件りである。「俳句界」(2009年1月号)所載。(清水哲男)


January 1712010

 冬の虹貧しき町を吊り上げる

                           田淵勲彦

は、ほかの季節よりも空中のものに意識が向かいます。毎夜10時過ぎに犬の散歩に出かけるわたしは、綱に引きずられながらも、いつのまにか冬空に輝く星にうっとりと見入ってしまいます。ほかの季節には、夜空のことなんてちっとも気にならないのに。本日の句は星ではなく、もっと近くに、そしてもっと鮮やかに現れてくる虹を詠っています。虹を、クレーンのように見据えて、空高くに何物かを持ち上げているように感じることは、それほど珍しいことではないのかもしれません。それでも読んだ瞬間に、ふっと小さく驚いてしまうのは、読者の読みそのものが、足元をすくわれて、空に持ち上げられたかのような気持ちのよさを感じるためなのです。冷たい空気が、句のすみずみにまで行渡っているような、透明感のある作品になっています。この句で特に好きなのは、「貧しき」という語のひそやかさです。ひたすら地べたにしがみついている生命のけなげさを、やさしく表しているようです。『朝日俳壇』(朝日新聞・2009年12月28日付)所載。(松下育男)




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