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2010ソスN1ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1612010

 風花のかかりてあをき目刺買ふ

                           石原舟月

花は天泣(てんきゅう)とも呼ぶという。先日、富士山を正面に見ながら、ああこれがまさに風花、という中に居た。空は青く日が差して空気は冷たく、大きさも形もまちまちにきらきら落ちてくる風花は、たしかに天がきまぐれにこぼした涙のようだった。風花という言葉そのものに情趣があるので、あ、風花、と思うばかりでなかなか句にならなかったけれど、富士の冠雪と青空と光のかけらのような雪片の印象は深く残っている。積もるわけではもちろんなく、かといって春の雪のように濡らしながらすぐ消えてしまうというのでもなく、冷たさを持ちながら、掲出句の場合は外で売られている目刺の上に、その気ままなかけらがとどまっていたのだろう。目刺の青のひんやりとした質感ときりりと青い空。買ふ、と詠むことで作者の位置がはっきりして、生き生きとした一句となった。「図説 俳句大歳時記 冬」(1965・角川書店)所載。(今井肖子)


January 1512010

 蓮田出る脚こんなにも長きこと

                           今瀬剛一

根堀りが、泥に足を取られてなかなか動けず難儀している状態を詠んだ句。「こんなにも重きこと」だと句の趣は一変する。足取りが重いというのは成句になるから平凡。「長きこと」と、重さを長さに転じたところに発見とウィットがある。蓮田を見ているとあんなところに入って蓮根を採るのは大変というか割の合わない仕事に見えるが、それなりに採算が合っているからつづけているのだろう。田の仕事などが機械化した中で、蓮根堀りも今は機械の仕事になっているのだろうか。以前のままなのだろうか。同じ作者に「着ぶくれし身をつらぬいて足二本」もある。こちらの方はモコモコに膨らんだ体を支えている足を客観視している。『花神現代俳句・今瀬剛一』所収(1996)所収。(今井 聖)


January 1412010

 屋根のびてきて屋根の雪落ちにけり

                           しなだしん

が珍しい瀬戸内海と太平洋岸の冬しかしらないので、一年の三分の一を雪に封じ込められる生活は想像するしかない。豪雪地帯である新潟県上越地方を舞台にした鈴木牧之の『北越雪譜』には以下のような記述がある。「雪ふること盛んなるときは積もる雪家をうづめて雪と屋根と等しく平らになり、明りのとるべき処なく、昼も暗夜のごとく燈火を照して家の内は夜昼をわかたず」雪囲いをしてほとんど塞いでしまった窓からは灰色に垂れこめた空と軒の黒い影しか見えないだろう。その影がすうっと伸びる心地がして、雪が滑り落ちる。そんな情景を外から見れば「屋根のびてきて」ということになろうか。「リアル」とは自分の内側の体験を掴みとって、他の誰もが出来ない表現で読み手に感銘を呼び起こすことだとすれば、雪国での生活経験のない私にもその瞬間がいきいきと想像される一句である。『夜明』(2008)所収。 (三宅やよい)




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