人員削減と賃金カット。それでも更生法が適用される会社はまだ良い。(哲




2010ソスN1ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1512010

 蓮田出る脚こんなにも長きこと

                           今瀬剛一

根堀りが、泥に足を取られてなかなか動けず難儀している状態を詠んだ句。「こんなにも重きこと」だと句の趣は一変する。足取りが重いというのは成句になるから平凡。「長きこと」と、重さを長さに転じたところに発見とウィットがある。蓮田を見ているとあんなところに入って蓮根を採るのは大変というか割の合わない仕事に見えるが、それなりに採算が合っているからつづけているのだろう。田の仕事などが機械化した中で、蓮根堀りも今は機械の仕事になっているのだろうか。以前のままなのだろうか。同じ作者に「着ぶくれし身をつらぬいて足二本」もある。こちらの方はモコモコに膨らんだ体を支えている足を客観視している。『花神現代俳句・今瀬剛一』所収(1996)所収。(今井 聖)


January 1412010

 屋根のびてきて屋根の雪落ちにけり

                           しなだしん

が珍しい瀬戸内海と太平洋岸の冬しかしらないので、一年の三分の一を雪に封じ込められる生活は想像するしかない。豪雪地帯である新潟県上越地方を舞台にした鈴木牧之の『北越雪譜』には以下のような記述がある。「雪ふること盛んなるときは積もる雪家をうづめて雪と屋根と等しく平らになり、明りのとるべき処なく、昼も暗夜のごとく燈火を照して家の内は夜昼をわかたず」雪囲いをしてほとんど塞いでしまった窓からは灰色に垂れこめた空と軒の黒い影しか見えないだろう。その影がすうっと伸びる心地がして、雪が滑り落ちる。そんな情景を外から見れば「屋根のびてきて」ということになろうか。「リアル」とは自分の内側の体験を掴みとって、他の誰もが出来ない表現で読み手に感銘を呼び起こすことだとすれば、雪国での生活経験のない私にもその瞬間がいきいきと想像される一句である。『夜明』(2008)所収。 (三宅やよい)


January 1312010

 手を打つて死神笑ふ河豚汁

                           矢田挿雲

はしかるべき店で河豚を食べる分には、ほとんど危険はなくなった。むしろ河豚をおそるおそる食べた時代が何となく懐かしい――とさえ言っていいかもしれない。それにしても死神が「手を打つて」笑うとは、じつに不気味で怖い設定である。あそこに一人、こちらに一人という河豚の犠牲者に、死神が思わず手を打って笑い喜んだ時代が確かにあった。あるいはなかなか河豚にあたる確率が低くなったから、たまにあたった人が出ると、死神が思わず手を打って「ありがてえ!」と喜んだのかもしれない。落語の「らくだ」は、長屋で乱暴者で嫌われ者のらくだという男が、ふぐにあたってふぐ(すぐ)死んでしまったところから噺が始まる。同じく落語の「死神」は、延命してあげた男にだまされる、そんな間抜けな死神が登場する。アジャラカモクレンキューライス、テケレッツノパー。芭蕉にはよく知られた「あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁」と胸をなぜおろした句がある。西東三鬼には「河豚鍋や愛憎の憎煮えたぎり」という、いかにも三鬼らしい傑作があるし、吉井勇には「極道に生れて河豚のうまさかな」という傑作があって頷ける。強がりか否かは知らないけれど、河豚の毒を前にして人はさまざまである。挿雲は正岡子規の門下だった。大正八年に俳誌「俳句と批評」を創刊し、俳人として活躍した時期があった。ほかに「河豚食はぬ前こそ命惜みけれ」という句もある。平井照敏編『新歳時記』(1989)所載。(八木忠栄)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます