今日から学校がはじまりますね。近所の駄菓子屋さんも再開です。(哲




2010ソスN1ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0712010

 生きてゐる仕事始めの静電気

                           守屋明俊

んべんだらりと過ごした三が日を終えて、仕事が始まった。仕事納めの日から数えれば一週間しか経っていないのに昨年というだけで遠い距離が感じられる。正月休みというのは他の休みと違ってぽかっと大きな穴に落ち込んだような、浦島太郎のような心持ちになってしまう。ビルのエスカレーターを上がりやれやれとドアノブに手を触れた瞬間びりり、と軽い衝撃が伝わる。乾燥したこの季節に多い現象だけど、のびきった気持ちに喝を入れて仕事モードに切り替えよと言われているようだ。上五の「生きてゐる」の措辞は話し言葉にすれば「生きてるぅ??」と静電気に呼びかけられる感じだろうか。指に来た刺激が休みボケをたたき起こすようでなんとなくおかしい。「鏡餅テレビ薄くて乗せられず」「何たる幸グラタンに牡蠣八つとは」など日常の出来事が豊かな諧謔で彩られていて、おとなの味わいを感じさせる。『日暮れ鳥』(2009)所収。(三宅やよい)


January 0612010

 松の内妻と遊んでしまひけり

                           川口松太郎

うまでもなく「松の内」は正月七日まで。古くは十五日までが松の内とされていたが、幕府の命令もあって短縮されたのだという。また三が日を過ぎると、松をはずす地方が増えた時期もあったらしい。今や、三が日どころか元旦も休まず営業する大型店さえ、珍しくなくなってしまった。のんびりとした正月気分など、時代とともにアッという間にどこかへすっとんで行ってしまった。たちまち慌ただしい日常に舞い戻ってしまう。でも、やはり日本の正月は正月である。若者はそわそわと繁華街へくり出して行く。けれど、たいていの女房持ちはゆっくり家にいて過ごすことが多いのではないか。掲出句の夫婦は、何をして遊んだのかは知らないが、「遊んでしまひけり」……やるべき仕事もあったにもかかわらず、ついうかうかと日を過ごしてしまったという後悔とともに、「まあ、松の内だもの」という微苦笑がちょっぴり感じられる。子や孫、あるいは友だちと遊ぶのではなく、妻と遊んだところにこそ、この句のポイントがあり味わいがある。大方の人が、新年早々の意気込みとは別に、うかうかと時間をやり過ごしてしまうケースが多いのも松の内。落語家だけは高座で1月中は「おめでとうございます。本年もどうぞご贔屓に……」と連呼しつづけている。作家・松太郎の妻・三益愛子は、「母もの映画」で往時の人々の涙をさらった名女優。晩年はがらりと一転して舞台の「がめつい奴」で、がめつい「お鹿婆さん」役で活躍し、テアトロン賞などを受賞した。平井照敏編『新歳時記』(1990)所載。(八木忠栄)


January 0512010

 セーターに猫の毛付けしまま帰す

                           西澤みず季

謡にある通り、猫は寒がりであるから、冬ともなれば人間の膝の上だろうが、うっかり脱ぎ捨てた洋服の中だろうがお構いなしに、より暖かい場所を探し求める。というわけで猫を飼っていると、どんなに注意していてもどこかしらに猫の毛が付いているものである。電車のなかで居眠りした友人がはっと目をさましたとき「隣の人がなにしてたと思う?」と言う。愛らしい女性がもたれかかってきたのだから喜んでいたのかと思いきや、「すごく嫌そうに、わたしのコートから移動した猫の毛を一本一本取ってたの」だそうだ。猫の毛は細くてなかなか取りにくい。だからこそ、家庭内に不穏な騒動を持ち込む原因にもなりかねない。掲句の女心がちょっぴりのいたずらなのか、はたまた浮気な男へのきつい一撃なのか、どちらにしてもその後が気になる一句である。猫を飼っている人としか付き合わないから大丈夫、などとゆめゆめ油断めされるな。かの友人は「うちの猫の毛じゃない」ということもすぐに分かると言っていた。〈雪渓を見上ぐる鳥の顔をして〉〈極月の万の携帯万の飢餓〉『ミステリーツアー』(2009)所収。(土肥あき子)




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