新宿地下の年賀状宣伝柱。誰も見向きもせずに早足で通り過ぎてゆく。(哲




2009ソスN12ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 19122009

 限りなく限りなかりし散いてふ

                           榎本好宏

にしても銀杏にしても、その散る姿に惹かれるのはどうしてなのだろう。散ることを儚いと見てそこに無常を感じる心や、確かに続く営みを慈しむ心。ひたすら散ってゆく花や葉にさまざまな心持ちで向き合いながら、今自分はどこにいてこれからどこへ行くのだろう、と不思議な気持ちになることもある。木の葉の命は枝から離れた瞬間に消えるけれど、木々はまた芽吹き静かに命をくり返してゆく。それは永遠ではないにしても、ヒトから見れば途方もない時間であり、星や宇宙から見ればまたほんの一瞬だろう。限りないことが限りなく続く。そう言ってしまうと説明なのだが、限りなく限りなかりし、と十二音で叙すとすっと広がってくる気がする。そんな時空の無限の広がりを感じさせる一句である。「奥会津珊々」(2003)所収。(今井肖子)


December 18122009

 天の贅地の贅雪に日が射して

                           津田清子

みぶりがからっとしていて、俳句の臭みのようなものが感じられない。こういう句が誓子文体本流の句である。雪は積雪のこと。一切が雪に覆われた世界に日が射している。空は青空。まさに天の贅地の贅だ。ひいてはこの世の贅、生きて在ることの贅に通じる。誓子が切れ字を嫌ったのは、古い俳句的情緒の臭みを嫌ったから。切れ字を排する代わりに五七五のリズムを一度壊した上で自己にひきつけて新鮮なリズムを構築する。誓子文体の中に、作者によって内容のオリジナルが盛られている。「角川俳句年鑑」(2009)所載。(今井 聖)


December 17122009

 毛糸編む母の周りに集まりぬ

                           後閑達雄

車の座席や病院の待合室で編みかけのものを袋から取り出してせっせと編み針を動かす姿をこの頃はとんと見かけなくなってしまった。今迄毛糸編みに見向きもしなかった女の子が編み針と毛糸を購入してマフラーを編み始めたらボーイフレンドが出来たものと相場が決まっていたが、この頃はどうなのだろう。昔のお母さんは古くなったチョッキやセーターをほどいた毛糸を蒸気でのばし、違うものに再生させていた。せっせと編み針を動かすお母さんのまわりに子供たちが集まって、学校のこと、友達のことなどしきりに話しかける。お母さんはふんふんと頷きながら手は休ませない。手編みのせーターもあまり着ることのなくなった昨今、このような牧歌的風景は少なくなったことだろう。だからこそ昔はありふれていたこんな光景が懐かしい。ゆったり流れる冬の夜の時間。母を囲んで丸く集まった家族の温もりが毛糸の暖かさをともに伝わってくる句である。『卵』(2009)所収。(三宅やよい)




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