暦を見る頻度が増してきた。見たって何がどうなるわけでもないけれど。(哲




2009ソスN12ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 11122009

 まつくろに枯れて何かの実なりけり

                           高田正子

七の語句「何かの」の力の抜き加減。「なりけり」の流し方。「枯れて」は状態の知的把握だし季語だから伝統派の立場では、句の大前提のようなものだ。季語に続いている句の後半は力が抜けているので「まつくろ」だけがこの句の眼目。上五だけが強調されることで、句は成功している。副詞が句の中心にすわる珍しい例だ。ところで、「なりけり」は一応断定ということになるのだろうが、それほどの強調的意味を持たないので仮に取ってしまうと「まつくろに枯れて何かの実」。このままで自由律の句になりそうだが、自由律なら「何かの実まつくろに枯れ」くらいにするかもしれない。でもそう考えると「なりけり」の効果が確認できる。やはりあった方がいい。リズム中心の「なりけり」が素朴な眼差しをうしろから支えている。「角川俳句年鑑」(2010年版)所載。(今井 聖)


December 10122009

 魔女の目の小さくなりて蕪汁

                           加藤直克

ズの魔法使いに出てくる西の魔女、白雪姫に毒林檎を売りに来る意地悪なお妃、お話に出てくる魔女たちは黒いマントに身を包み、三角のとんがり頭巾の影から邪悪そうな眼を光らせて相手の様子をうかがっている。思えばステレオタイプなイメージだが、悪役がいるからこそ主役が引き立つ。魔女は大事な役回りだ。掲句は「小さくなりて」というところで魔女に対する固定的な見方を少しめくりあげてくれる。真白な蕪をあっさりとした出し汁で時間をかけて煮込み、味噌で仕立てた蕪汁。アツアツの蕪をほくほく食べながら、満足のあまり魔女が目を細めていると思えば、魔女の顔が愛敬のある表情へ一変する。そうした映像的面白さとともに、日本的「蕪汁」と西洋的「魔女」の取り合わせがミスマッチなようでバランスがよく、どこかしら滑稽な味わいを感じさせるところにこの句の魅力があるように思う。『葆光』(2009)所収。(三宅やよい)


December 09122009

 悪性の風邪こじらせて談志きく

                           高田文夫

型インフルエンザの蔓延で、ワクチンの製造が追いつかない昨今、病院も学校も電車でもマスク姿があふれかえっている。学校の学級閉鎖も深刻だ。例年インフルエンザでなくとも、風邪がはやる冬場。まして暮れのあわただしい時季に風邪をこじらせてしまってはたまらない。文夫はくっきりした口跡の持ち主だが、悪性の風邪をこじらせても、贔屓の立川談志の高座は聴きに出かけなくてはならない。つらい状況の句だけれど、「談志きく」の下五で救われて笑いさえ感じられる。談志の声は美声ではない。あの声だ。数年前「立川流二十周年」の会で、志の輔の後に高座にあがった談志が、開口一番「こんなに声の悪いやつがつづいていいのかね」と真顔で呟いて、客席をひっくり返したことがあった。志の輔は「談志の声は悪くない」と言っているが、まあ、ふたりともガラガラ声だ。どちらかと言えば「悪い声」ということになるだろう。もっとも芸人の場合、いわゆる美声が必ずしもプラスになるとは限らない。風邪をこじらせれば熱も出るだろうし、のどをやられればガラガラ声にだってなる。そんな状態でも、談志のガラガラ声を聴きに出かけるというブラック・ユーモアに、文夫らしさがにじんでいる。ちなみに文夫は立川流Bコース(著名人)の真打で、高座名は「立川藤(とう)志楼」。本格的に高座で落語を演じることも珍しくない。文夫の風邪の句に「風邪ひとつひいて女郎の冬支度」がある。『平成大句会』(1994)所収。(八木忠栄)




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