目覚めて晴れていると気持ちがそわそわ。撮影に行きたくなる。病膏肓。(哲




2009ソスN12ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 07122009

 残像なお増殖止まず開戦日

                           的野 雄

日12月8日(1941年・日本時間)は大東亜戦争(当時の日本政府による呼び方)の開戦日。「ああ」と感慨を抱くのは、既に物心のついていた七十代半ば以降の人たちだろう。私はまだ三歳だったので、何も覚えてはいない。この日から、日本は、いや世界は、泥沼の道に入った。作者の脳裏に去来する「残像」はどんなものなのだろうか。むろん、一言では尽くせまい。大きく変わった身内の運命。知り合いの人の運命。なによりも口惜しいのは、戦争さえなければ死ななくてもよかった人たちの死である。若く元気だった人たちの顔が、いまでも目に浮かぶ。同時に、当時の暮らしぶりや山川の風景、そしてその後の自身を含めて翻弄されつづけた生活のありようなど。残像はとめどなく明滅し、止むことがない。言っても甲斐なきことなどは承知でも、なおこう詠まずにはいられない作者の気持ちが、私などにはよくわかる。現在沖縄基地問題をめぐって、鳩山政権が苦しがっているようだ。しかし、そんな苦しみは、あの日を生身で体験した人々のそれに比べれば屁みたいなものである。たとえ無責任なマスコミに八方美人的と言われようとも、問題解決を焦ることはない。じっくりと腰をすえて、百年の大計を練るべきである。『円宙』(2009)所収。(清水哲男)


December 06122009

 降るをさへわするる雪のしづかさよ

                           藤森素檗

浜では、冬になったからといって毎年必ず雪が降るというものではありません。通勤準備をする朝に、天気予報のテレビ画面の雪ダルマの絵を見ながら、ああもう北海道には雪が降っているのだなと、うっとりと風景を想像するくらいなものです。来る日も来る日も、乾ききった関東の空の下を、遠くを見つめながら電車に乗っているだけです。そのせいかどうか、雪のやっかいな面はなかなか意識にはのぼらず、きれいなところだけに目が向いてしまいます。雨と対比して、心がより雪のほうに傾くのは、見た目の美しさや、触れたときの感触だけではなく、音の大小にも関係があるのかもしれません。今日の句も、小細工することなく、正面から雪の音を詠んでいます。降っているのを忘れてしまうのは、もちろん降られているヒトのほうですが、おそらく雪自身も、同じように忘れているのです。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


December 05122009

 落日の中より湧いて鶴となる

                           坂口麻呂

者は鹿児島在住であった。この句は、鶴の渡来で名高い、出水(いずみ)での一句。鶴が渡ってくると、当地を何回も訪れていた。この日は、昼間どこかに遊びに行った鶴が戻ってくるのを夕方待っていたのだという。西の空をひたすら見つめているうち日も暮れかかり、大きな夕日が沈んでゆく。そろそろかなと思ったその時、赤くゆらめく太陽に、わずかな黒い点点が見えたかと思うと、思いがけないほどの速さで、それらが鶴となって作者に向かって飛来して来たのだ。落日、の一語が、深い日の色と広い空、さらにふりしぼるような鶴唳をも感じさせる。自然の声を聞くために、毎日40分の散歩を欠かさなかったという作者だが、この秋、突然亡くなられた。この句は、南日本新聞の南日俳壇賞受賞句(2003.4.18付)。あっと目を引くというのではないけれど、しっかりとした視線と表現が魅力的な、南日俳壇常連投句作家で、私はファンの一人だった。どちらかというと出不精で、鶴の飛来はもちろん、あれもこれも知らないことの多すぎる自分を反省しつつ、合掌。(今井肖子)




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