November 152009
叱られて次の間へ出る寒さかな
各務支考
各務支考(かがみしこう)も江戸期の俳人です。とはいうものの、本日の句を読む限りは、当時だけにあった物や言葉が入っているわけではなく、いつの世でも通用する句になっています。叱られることはもちろんつらいことでありますが、片や、叱ることも心の大きな負担になります。相手の反省を求めて頭ごなしにモノを言う、という立場のあり方には、多くの人がそうであるように、私も性格的にどうもなじめません。それでも会社に長く勤めていれば、そのうち管理職になってしまうわけであり、否が応でも部下を叱らなければならないことがあります。さて、本日の句。叱られて、いかにもしょんぼりと帰ってくる人の丸まった背中が見えるようです。そのしょんぼりが、次の部屋の床の冷たさ(あるいは畳でしょうか)に触れて、さらに悲しい震えにつながってきたのでしょう。なにがあったのか知る由もありませんが、だれしも間違いはあるもの。言葉もかけられないほどの意気消沈振りに、できたら帰りに赤提灯にでも、誘ってあげたいと思ってしまいます。『日本名句集成』 (1992・學燈社)所載。(松下育男)
November 142009
三つといふほど良き間合帰り花
杉阪大和
帰り花、とただいえば桜であることが多いというが、いまだ出会ったことがない。上野の絵画展の帰りに、桜並木を見上げて探したこともあるが、立ち止まって一生懸命見つけるというのもなんだか違うかなあ、と思ってやめた。枯れ色の庭園を歩いていて、真っ白なつつじの帰り花がちょこんと載っているのに出会うことはよくある。いかにも、忘れ咲、という風情で、個人的にはあまり好きでないつつじの花にふと愛着の湧く瞬間だ。掲出句の帰り花は、桜なのだろう。花をとらえる視線を思いうかべると、一つだと点、二つだと線、三つになると三角形、つまり面になって、木々全体にふりそそぐ小春の日差が感じられる。確かにそれをこえると、あちらにもこちらにも咲いていてまさに、狂い咲き、の感が強くなりそうだ。以前、俳句の中の数、について話題になった時、蕪村の〈五月雨や大河を前に家二軒〉は、調べの問題だけでなく、一軒ではすぐ流されそうだし、三軒だと間が抜ける、という意見になるほどと思ったことがある。そのあたり、ものによっても人によっても微妙に違いそうだ。「遠蛙」(2009)所収。(今井肖子)
November 132009
大枯野拾へば動く腕時計
蜂谷一人
蜂谷一人(はちやはつと)さんの句画展で展示されていた作品。捨てられていた時計を拾うと秒針が動きだした。枯野と腕時計、この大小の対象だけでもひとつの情趣はあるのだが、作者は形の対照とバランスに動きを入れて焦点を転換し生命感を象徴させた。「動く」があるためにこの句は人間の存在の確かさを描き出している。何々すればという条件を述べるのは俳句では成功しがたいと言われている。この句はその定説に挑戦している面もある。(今井 聖)
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