「私の人生の色ね」。昔インタビューしたJ.グレコが紅葉を眺めて言った。(哲




2009ソスN11ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 07112009

 初冬の徐々と来木々に人に町に

                           星野立子

きなり真冬の寒さかと思えば、駅まで足早に歩くと汗ばむほどの日もあり、季節の変わり目とはいえ、めまぐるしい一週間が過ぎて、今日立冬。その間に月は満ちたが、暁の空に浮かぶ満月はすでに透きとおった冬色だった。立子は、冬の気配が近づいてから立冬、初冬と過ぎてゆく十一月を特に好んだという。なつかしい匂いがする、とも。掲出句にあるように、いち早く黄葉して散る桜を初めとして、木々の色の移り変わりにまず冬を感じるのは、都会の街路樹でも同じだろう。落ち葉風にふかれ襟元を閉じて歩く人。そして町全体がだんだん冬めいてくることを、どこか楽しんでいるような作者。「初冬の徐々と来(く)」といったん切って、それから町がじんわり冬になっていく様を詠んでいるが、字余りで、一見盛りだくさんなようだけれど、リズムよく、「徐々」感が伝わってくる。この句に並んで〈柔かな夜につゝまれて初冬かな〉とある。なるほど好きな季節だったのだな、と思った。「立子四季集」(1974・東京美術)所載。(今井肖子)


November 06112009

 雪の降る町といふ唄ありし忘れたり

                           安住 敦

現というものが事実をそのまま写すことは有り得ないことで、俳句もまたノンフィクションであることは自明の理だという一見正しい論法で入ると「写生」蔑視に通じる。水原秋桜子以降の流れはそういう「自明の理」を持ち出す方向だった。「新興俳句」の流れはノンフィクション説を奉じて今日に至っている。ほんとうにそうだろうか。ものを写す、現実、事実をまるごと写せるはずもないのに写そうとすること。それが俳句という詩形を最大限に生かす方法であると子規は直感したのではなかったか。もうひとつ、表現の持つエネルギーに対していわば負のエネルギーが俳句にある。これも詩形から来る俳句の固有のものだ。それは枯淡とか俳諧の笑いとか神社仏閣詠ではなくて、こういう句だ。「忘れたり」の真剣さは大上段の青春性に対抗して、正調「老人文学」の要だろう。技術の確かな、感覚の鋭敏な、博学の若手がどんなに頑張っても及ばない世界だ。作者最晩年の作品。『現代俳句』(1993)所収。(今井 聖)


November 05112009

 巻き貝からのりだす羊富士新雪

                           竹中 宏

週のはじめよりぐっと気温が下がり冬めいてきた。札幌からは初雪の報が届いた。関東ではさすがに雪はまだだが、遠くに臨む富士山は白い雪をかぶっている。東京で見る富士は裾野の部分は隠れて空中に白く雪をかぶった山頂が浮いているように見える。掲句では羊の白さと冠雪をダブらせているのだろう。くるりと巻いた巻き貝から羊がのりだす絵柄は不思議かつユーモラス。それぞれの言葉が紡ぎだすイメージに読み手を立ち止まらせつつ次元の違う世界の手触りを紡ぎだすことが句の狙いなのだろう。句集には最大限に読み手の想像力を見積もった言葉の連鎖で綴られた句が並び読み解くのは難しい。こういう句はあらかじめ落とし所をきめて作られる句とは違い、おそらくは作者も言葉を探り当てながら進んでいく。どこで完成を見切るかが作り手の技といえるかもしれない。『アナモルフォーズ』(2003)所収。(三宅やよい)




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