1万人のクビを切ってJAL再建だと。人間なんてどうでもよい文化国とは。(哲




2009ソスN11ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 03112009

 手が翼ならば頭は秋の風

                           守屋明俊

日「文化の日」は、一年に数日ある晴れの特異日。予報では降水率10%だが、最高気温が東京で15度とかなり低い。11月に入ると、空にはしっとりした秋と硬質な冬のストライプがあって、冬の層がみるみる厚くなっていくように思える。くっきりと筋目のついているような秋の空気を、両手で撹拌しながら深呼吸してみれば、なんとなく宙に浮くような気分が味わえる。空を飛ぶ鳥たちには、翼を上下させるはばたき飛行のほか、翼を広げたまま宙を滑るように飛ぶ滑空など、さまざまな飛び方があるという。しかし、どれも頭は矢印の先のように進行方向を指している。秋の風に小さな頭をもぐりこませるようにして、それぞれの目的地を目指しているのだと頭上を仰げば、飛び交う鳥たちの残した軌跡のような雲が青空に描かれていた。ところで、掲句によって合点がいったことがある。それは、天使の絵には肩甲骨のあたりから大きな翼が生えており、合唱コンクール定番の「翼をください」の歌詞でも背中に鳥の翼が欲しいと歌われるが、掲句もいうように、翼は人間の腕にかわるものであるはずだ。想像上の姿とはいえ、腕も翼も持つというのは少し欲張りすぎやしないだろうか。人魚を描くとき、足のほかに尾を付けることがないのに、不思議なことである。〈母校とは空蝉の木が鳴くところ〉〈稲妻や笑ひの絶えぬ家ながら〉『日暮れ鳥』(2009)所収。(土肥あき子)


November 02112009

 淋しくて燃ゆるサルビアかも知れず

                           山田弘子

のサルビアが好きだ。とくに、この季節の……。多くの歳時記では夏の季語とされているが、花期は長く、まだ盛んに咲きつづけている。他の植物がうら枯れていくなかで、その朱を極めたような様子には、どういうわけか淋しさを感じてきた。絶頂は既にして没落の兆しを孕んでいるからなのだろうか。長年こんな感じ方は私だけのものかと思っていたら、掲句があった。「かも知れず」とあるからには、作者もまた、自分だけの感性だろうかといぶかっているようにも思える。私にしてみれば、ようやく同志を得た心持ちがしている。サルビアといえば、だいぶ以前に女子大生三人組の「もとまろ」が歌っていた「サルビアの花」がある。失恋の歌だ。♪いつもいつも思ってた サルビアの花を あなたの部屋の中に投げ入れたくて……。私くらいの年齢には、こんなセンチな歌詞はもう甘ったる過ぎるのだけれど、淋しい歌にサルビアを持ってきた感覚はなかなかのものだと思う。ただし、作詞者はサルビア自体には淋しさを感じていない。むしろ元気な花と失恋との取り合わせから、淋しさを演出している。さて、早いもので季節は十一月。間もなく、さすがのサルビアの朱も消えてしまう。『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


November 01112009

 月夜つづき向きあふ坂の相睦む

                           大野林火

を書こうとするときには、最初から遠くを見るのではなく、できるだけ近くの、小さなものから書いてゆこうと心がけています。細かいものを、正確に文字にうつすのが創作の間違いのない道筋であると、いつの頃からか確信を持ってきました。抽象的な概念を、大上段に振り回して事の真理を作品化してみようなどという行為が、少なくともわたしには、手にあまるものであると、経験から学んできたからです。だからなのでしょうか。大きな世界を、しっかりと描ききった作品を見ると、うらやましくもなり、それだけで深い感銘を受けてしまいます。今日の句も、坂が向き合う姿をダイナミックに描いて、わたしたちの前に示してくれています。むしろ俳句という、これだけ小さな世界だからこそ、大きなものを描くことに適しているのかもしれません。穏やかな秋の夜に、小さな商店街の並ぶ一本の谷を挟んで、二つの坂道が両側へ上っています。「相睦む」の一語が、読者へやさしく傾斜してくれています。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)




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