神代植物公園の秋の薔薇。あまりの人気に休日は三脚使用の撮影が禁止に。(哲




2009N1019句(前日までの二句を含む)

October 19102009

 草の実のはじけ還らぬ人多し

                           酒井弘司

書きに「神代植物公園」とある。四句のうちの一句。我が家からバスで十五分ほどのところなので、よく出かけて行く。年間パスというものも持っている。秋のこの公園といえば、薔薇で有名だ。広場に絢爛と咲き誇るさまは、とにかく壮観である。しかし、作者は四句ともに薔薇を詠み込んではいない。目がいかなかったはずはないのだけれど、それよりも名もない雑草の実などに惹かれている。作者は私と同年齢だから、この気持ちはよくわかるような気がする。華麗な薔薇よりも草の実。それらがはじけている様子を見るにつけ、人間もしょせんは草の実と同じような存在と感じられてきて、これらの草の実とおなじように土に還っていった友人知己のことが思い出される。そんな人々の数も、もうこの年齢にまでなると決して少なくはない。そこで作者は彼らを懐かしむというよりも、むしろ彼らと同じように自身の還らぬときの来ることに心が動いているようだ。自分もまた、いずれは「多し」のひとりになるのである。この句を読んだときに、私は半世紀も前に「草の実」を詠んでいることを思い出した。「ポケットにナイフ草の実はぜつづく」。この私も、なんと若かったことか。掲句との時間差による心の移ろいを、いやでも思い知らされることになったのだった。『谷風』(2009)所収。(清水哲男)


October 18102009

 手榴弾つめたし葡萄てのひらに

                           高島 茂

句を読み慣れている人には容易に理解できる内容も、めったに句を読む機会のないものには、短すぎるがゆえに何を表現しているのか正確にはわからないことがあります。たとえば本日の句では、てのひらに載っているのは手榴弾でしょうか、あるいは葡萄でしょうか。どちらかがどちらかの比喩として使われていると思われるものの、断定ができません。間違いなくわかるのは、「つめたし」が手榴弾にも葡萄にも感じられるということ。どちらにしても双方の、小さな突起を集めた形と、個々の表面に感じる冷たさが、作者の複雑で繊細な心情をしっとりと表しています。ほどよい大きさの、それなりの重さを手に持つことは、なぜか気持ちのよいものです。生き物ではなく、物に触れることによってしか保てない心というものが、たしかにあります。手榴弾、葡萄という魅力的に字画の多い漢字を、「つめたし」「てのひらに」のひらがながやさしく囲っています。じっと冷え切った物に対峙するようにして、柔らかな皮膚をもった私たちが、句の中に置かれています。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


October 17102009

 障子貼る庭の奥まで明るき日

                           荒川ともゑ

子の張り替えは一仕事だけれど、真新しい障子越しの日差しの中で、ぼんやりと達成感を感じている時間は幸せだ。張り替えた障子が日を吸ってだんだんピンとしてなじんでくるのもうれしい。障子貼る、は冬支度ということで晩秋だが、リビングに障子をしつらえていた我が家では、ついつい大掃除の一環で張り替えが年末近くに。水が冷たい上、晴れていても日差しはどこか弱々しく、来年こそと思うのだがなかなか。掲出句のように、濃い秋日がすみずみまで行き渡るような日こそ、障子貼り日和だろう。何気ない句だが、奥まで、という表現に、澄んだ空や少しひんやりとした風、末枯れの始まった草やちらほら紅葉し始めた木々が見えてくる。秋の日差がくまなく行き渡り、形あるものにくっきりとした影をひとつずつ与えている一日である。現在我が家は建て替え中、仮住まいのマンションに障子はない。新しい家にも同じように障子を入れたかったのだが、諸事情により障子紙でなくワーロンという合成紙を使用することになった。張り替えの必要がないのは楽だけれど寂しくもある。「花鳥諷詠」(2009・9月号)所載。(今井肖子)




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