ボールはどこに? 若者のしなやかな動きを見ているだけで爽快だ。(哲




2009ソスN10ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 17102009

 障子貼る庭の奥まで明るき日

                           荒川ともゑ

子の張り替えは一仕事だけれど、真新しい障子越しの日差しの中で、ぼんやりと達成感を感じている時間は幸せだ。張り替えた障子が日を吸ってだんだんピンとしてなじんでくるのもうれしい。障子貼る、は冬支度ということで晩秋だが、リビングに障子をしつらえていた我が家では、ついつい大掃除の一環で張り替えが年末近くに。水が冷たい上、晴れていても日差しはどこか弱々しく、来年こそと思うのだがなかなか。掲出句のように、濃い秋日がすみずみまで行き渡るような日こそ、障子貼り日和だろう。何気ない句だが、奥まで、という表現に、澄んだ空や少しひんやりとした風、末枯れの始まった草やちらほら紅葉し始めた木々が見えてくる。秋の日差がくまなく行き渡り、形あるものにくっきりとした影をひとつずつ与えている一日である。現在我が家は建て替え中、仮住まいのマンションに障子はない。新しい家にも同じように障子を入れたかったのだが、諸事情により障子紙でなくワーロンという合成紙を使用することになった。張り替えの必要がないのは楽だけれど寂しくもある。「花鳥諷詠」(2009・9月号)所載。(今井肖子)


October 16102009

 とぶ意思なきはたはた次は誰と遭ふ

                           津田清子

たはた(ばった)が飛ぶ意思がないとどうしてわかるのか。それは人が近づいても飛ぼうとしないからだ。飛ぼうとしないばったにこれから何人の人が気づくのだろう。広大な世界の中のほんの一点に確かに息づく生命があって、その存在にかかわることなく無数の存在が通りすぎていく。このはたはたは実は作者そのものだ。人間そのものだ。という寓意に入る前に対象そのもののリアルが生かされていることが優れた「詩」の条件だと僕は思う。生て在ること、そのものの途方もないさびしさをこのはたはたが訴えかけている。『新日本大歳時記』(1999)所収。(今井 聖)


October 15102009

 水栽培したくなるよな小鳥来る

                           中居由美

休3日間はからっとして気持ちのよい晴天が続いた。玉川上水に沿って歩くと林の奥から様々な小鳥の鳴き声が聞こえてくる。「小鳥」と言えば大陸から渡ってくる鳥ばかりでなく、山地から平地へ移ってくる鳥も含むらしい。鶸、連雀、セキレイ、ツグミ、ジョウビタキなど、小鳥たちの種類もぐっと多彩になるのが今の季節だろう。北九州に住んでいたときは季節によって見かける小鳥の種類が変わったことがはっきりわかったけど、東京に来てからは武蔵野のはずれに行かなければなかなか小鳥たちにお目にかかれない。水のように澄み切った秋空を渡ってくる彼らを「水栽培したくなるよな」と歌うような調子で迎え入れている作者の心持ちが素敵だ。「小鳥来る驚くほどの青空を」という中田剛の句があるが、この句同様、真っ青な秋空をはずむようにやってくる小鳥たちへの愛情あふれる挨拶という点では共通しているだろう。『白鳥クラブ』(2009)所収。(三宅やよい)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます