仏語学習余滴。「オー・シャンゼリゼ」はシャンソンに非ず。純英国産也。(哲




2009N1015句(前日までの二句を含む)

October 15102009

 水栽培したくなるよな小鳥来る

                           中居由美

休3日間はからっとして気持ちのよい晴天が続いた。玉川上水に沿って歩くと林の奥から様々な小鳥の鳴き声が聞こえてくる。「小鳥」と言えば大陸から渡ってくる鳥ばかりでなく、山地から平地へ移ってくる鳥も含むらしい。鶸、連雀、セキレイ、ツグミ、ジョウビタキなど、小鳥たちの種類もぐっと多彩になるのが今の季節だろう。北九州に住んでいたときは季節によって見かける小鳥の種類が変わったことがはっきりわかったけど、東京に来てからは武蔵野のはずれに行かなければなかなか小鳥たちにお目にかかれない。水のように澄み切った秋空を渡ってくる彼らを「水栽培したくなるよな」と歌うような調子で迎え入れている作者の心持ちが素敵だ。「小鳥来る驚くほどの青空を」という中田剛の句があるが、この句同様、真っ青な秋空をはずむようにやってくる小鳥たちへの愛情あふれる挨拶という点では共通しているだろう。『白鳥クラブ』(2009)所収。(三宅やよい)


October 14102009

 焚くほどは風がもてくる落葉かな

                           良 寛

語として「落葉」は冬だけれど、良寛の句としてよく知られた代表句の一つである。越後の国上山(くがみやま)にある古刹・国上寺(こくじょうじ)に付属する小さな五合庵の庭に、この句碑はのっそり建っている。もともと同寺が客僧を住まわせ、日に五合の米を給したところから名前がついた。良寛はここに四十歳から約二十年近く住んだ。同庵をうたった詩のなかに「索々たる五合庵/室は懸磬(けんけい)のごとく然り/戸外に杉千株」「釜中時に塵あり/甑裡(そうり)さらに烟なし」などとある。煮焚きをするのに余分なものはいらない。あくせくせず、ときに風が運んできてくれる落葉で事足りるというわけである。落葉一枚さえ余分にいらないという、無一物に徹した精神であり、そうした精神を深化させる住庵の日々であったと言える。「わが庵を訪ねて来ませあしびきの山のもみぢを手折りがてらに」「国上山杉の下道ふみわけて我がすむ庵にいざかへりてん」など、草庵での日々を詠んだ歌がたくさん残されている。山の斜面にひっそりと建つ五合庵から托鉢に出かけるには、夏場はともかく、雪に閉じ込められる冬場は、難渋を強いられたであろうことが容易に推察される。大島花束編『良寛全集』には「たくだけは風がもて来る落葉かな」とあり、一茶の日記には「焚くほどは風がくれたる……」というふうに、異稿も残されている。『良寛こころのうた』(2009)所収。(八木忠栄)


October 13102009

 月入るや人を探しに行くやうに

                           森賀まり

陽がはっきりした明るさを伴って日没するのと違い、月の退場は実にあいまいである。日の出とともに月は地平線に消えているものとばかり思っていた時期もあり、昼間青空に半分身を透かせるようにして浮かぶ白い月を理解するまで相当頭を悩ませた。月の出時間というものをあらためて見てみると毎日50分ずつ遅れており、またまったく出ない日もあったりで、律儀な日の出と比べずいぶん気ままにも思えてくる。実際、太陽は月の400倍も大きく、400倍も遠いところにあるのだから、同じ天体にあるものとしてひとまとめに見てしまうこと自体乱暴な話しなのだが、どうしても昼は太陽、夜は月、というような存在で比較してしまう。太陽が次の出番を待つ国へと堅実に働きに行っている留守を、月が勤めているわけではない。月はもっと自由に地球と関係を持っているのだ。本日の月の入りは午後2時。輝きを控えた月が、そっと誰かを追うように地平線に消えていく。〈道の先夜になりゆく落葉かな〉〈思うより深くて春のにはたづみ〉『瞬く』(2009)所収。(土肥あき子)




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