癌で腎臓摘出後一ヶ月の友人と飲む。元気というかタフというのか、凄い。(哲




2009ソスN10ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 13102009

 月入るや人を探しに行くやうに

                           森賀まり

陽がはっきりした明るさを伴って日没するのと違い、月の退場は実にあいまいである。日の出とともに月は地平線に消えているものとばかり思っていた時期もあり、昼間青空に半分身を透かせるようにして浮かぶ白い月を理解するまで相当頭を悩ませた。月の出時間というものをあらためて見てみると毎日50分ずつ遅れており、またまったく出ない日もあったりで、律儀な日の出と比べずいぶん気ままにも思えてくる。実際、太陽は月の400倍も大きく、400倍も遠いところにあるのだから、同じ天体にあるものとしてひとまとめに見てしまうこと自体乱暴な話しなのだが、どうしても昼は太陽、夜は月、というような存在で比較してしまう。太陽が次の出番を待つ国へと堅実に働きに行っている留守を、月が勤めているわけではない。月はもっと自由に地球と関係を持っているのだ。本日の月の入りは午後2時。輝きを控えた月が、そっと誰かを追うように地平線に消えていく。〈道の先夜になりゆく落葉かな〉〈思うより深くて春のにはたづみ〉『瞬く』(2009)所収。(土肥あき子)


October 12102009

 金木犀闇にひたりと父在りき

                           柴田千晶

親にとって子供はたしかに存在するが、子供にとっての父親は虚構のような存在なのかもしれない。子供に父親の実在は認識できても、それはほとんど他者の実在に対する認識と同じようである。なぜその人が、自分と同じ場所にいつも一緒にいなければならないのか。いま一つ、実感的な必然性に欠けるのが父親というものであるようだ。そこが母親とは大いに異なるところである。掲句を読んで、ことさらにその感を深くした。たしかに「父在りき」と詠まれてはいるけれど、この父は存命のときさながらに「在る」のではない。具象的なかたちを伴わず、非常に抽象的に存在している。解釈を百歩ゆずっても、せいぜいが半具象的な父親像である。それは闇のなかでは芳香が強いことでのみ存在感を示す金木犀と同様に、父親の「在る」姿は確固たるものからはほど遠く、あたりにただ瀰漫しているといったふうである。だから作者が「父在りき」というときに、父親は明確な像を結ぶのではなく、かなり茫漠とした印象である。つまり、句の父は父親というよりも、むしろ「父性」に近い言葉なのだと思う。同じ句集に「徘徊の父と無月の庭に立つ」があり、きわめて具体的な情景ではあるが、闇の庭でかたわらに立っている父親はまるで実感的な絆のない他者のようではないか。このように写るのは「徘徊」する父だからではなくて、父性というものが属性として遂に徘徊性を避けられないからだろうなと、納得しておくことにした。『赤き毛皮』(2009)所収。(清水哲男)


October 11102009

 墓のうらに廻る

                           尾崎放哉

ちろん季はありません。無季の句です。もしもこれを句というのなら、ということですが。現代詩にも、たまに限りなく短いものがありますが、ではこの一行が「句」であって「詩」ではないのはなぜなのでしょうか。人それぞれに解釈の方法があるでしょうが、「詩」をこれほどに短くするときには、おそらく、それ相応の世界の広がりを作品の奥に持たせようとします。もっと力みがはいるはずです。対して句のほうは、ただの行為をあるがままのものとして作品としてしまいます。そんなことができるのは、たぶん「句」だけです。詩で真似しても、ここまで徹底することは出来ません。で、なぜ墓の裏に廻ったのでしょうか。普通に考えるなら、墓石に彫られた戒名や命日を確認するためです。「うらに廻る」という行為が、コノヨの外を覗き込むという意味を持たせているのかもしれません。形式が自由なわりに、句から想像される事柄はずいぶんと限られています。それでもこの句にひかれるのは、動きそのものが、妙な実感を伴っているからなのです。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)




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