ウイークデー昼間のバスは老人ばかり。休日は若やぐから、当方もまた。(哲




2009ソスN10ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 12102009

 金木犀闇にひたりと父在りき

                           柴田千晶

親にとって子供はたしかに存在するが、子供にとっての父親は虚構のような存在なのかもしれない。子供に父親の実在は認識できても、それはほとんど他者の実在に対する認識と同じようである。なぜその人が、自分と同じ場所にいつも一緒にいなければならないのか。いま一つ、実感的な必然性に欠けるのが父親というものであるようだ。そこが母親とは大いに異なるところである。掲句を読んで、ことさらにその感を深くした。たしかに「父在りき」と詠まれてはいるけれど、この父は存命のときさながらに「在る」のではない。具象的なかたちを伴わず、非常に抽象的に存在している。解釈を百歩ゆずっても、せいぜいが半具象的な父親像である。それは闇のなかでは芳香が強いことでのみ存在感を示す金木犀と同様に、父親の「在る」姿は確固たるものからはほど遠く、あたりにただ瀰漫しているといったふうである。だから作者が「父在りき」というときに、父親は明確な像を結ぶのではなく、かなり茫漠とした印象である。つまり、句の父は父親というよりも、むしろ「父性」に近い言葉なのだと思う。同じ句集に「徘徊の父と無月の庭に立つ」があり、きわめて具体的な情景ではあるが、闇の庭でかたわらに立っている父親はまるで実感的な絆のない他者のようではないか。このように写るのは「徘徊」する父だからではなくて、父性というものが属性として遂に徘徊性を避けられないからだろうなと、納得しておくことにした。『赤き毛皮』(2009)所収。(清水哲男)


October 11102009

 墓のうらに廻る

                           尾崎放哉

ちろん季はありません。無季の句です。もしもこれを句というのなら、ということですが。現代詩にも、たまに限りなく短いものがありますが、ではこの一行が「句」であって「詩」ではないのはなぜなのでしょうか。人それぞれに解釈の方法があるでしょうが、「詩」をこれほどに短くするときには、おそらく、それ相応の世界の広がりを作品の奥に持たせようとします。もっと力みがはいるはずです。対して句のほうは、ただの行為をあるがままのものとして作品としてしまいます。そんなことができるのは、たぶん「句」だけです。詩で真似しても、ここまで徹底することは出来ません。で、なぜ墓の裏に廻ったのでしょうか。普通に考えるなら、墓石に彫られた戒名や命日を確認するためです。「うらに廻る」という行為が、コノヨの外を覗き込むという意味を持たせているのかもしれません。形式が自由なわりに、句から想像される事柄はずいぶんと限られています。それでもこの句にひかれるのは、動きそのものが、妙な実感を伴っているからなのです。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


October 10102009

 秋晴や攀ぢ登られて木の気分

                           関田実香

前は体育の日であった十月十日。東京オリンピックの開会式を記念して定められたこの日に結婚した知人の体育教師は、ハッピーマンデー制度で体育の日が毎年変わることになり困惑していたが、月曜に国民の休日がかたよるのもまことに一長一短だ。十月十日は晴の特異日とも言われているが、確かに十月の秋晴の空は、高くて深い。掲出句、よじ登られているのは母であり、よじ登っているのは我が子。〈八月の母に纏はる子は惑星〉と〈秋燈を旨さうに食む赤子かな〉にはさまれているといえばよりはっきりするが、一句だけ読んでも見えるだろう。吸い込まれるような青さに向かって、母のあちこちを掴みながら、その小さい手を空に向かって伸ばす我が子と絡まりながら、ふと木の気分だという。母とは、木のように大地に根を張った存在だ、などというのではなく、まさにそんな気分になったのだ。ただ可愛くてしかたないというだけでない句、作者の天性の感受性の豊かさが、母となってさらに、よい意味でゆとりある個性的な詩を生んでいると感じた。「俳句」(2009年8月号)所載。(今井肖子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます