阪神公式ページに金本へのブーイングの嵐。バットを置くべき時だろう。(哲




2009ソスN10ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 11102009

 墓のうらに廻る

                           尾崎放哉

ちろん季はありません。無季の句です。もしもこれを句というのなら、ということですが。現代詩にも、たまに限りなく短いものがありますが、ではこの一行が「句」であって「詩」ではないのはなぜなのでしょうか。人それぞれに解釈の方法があるでしょうが、「詩」をこれほどに短くするときには、おそらく、それ相応の世界の広がりを作品の奥に持たせようとします。もっと力みがはいるはずです。対して句のほうは、ただの行為をあるがままのものとして作品としてしまいます。そんなことができるのは、たぶん「句」だけです。詩で真似しても、ここまで徹底することは出来ません。で、なぜ墓の裏に廻ったのでしょうか。普通に考えるなら、墓石に彫られた戒名や命日を確認するためです。「うらに廻る」という行為が、コノヨの外を覗き込むという意味を持たせているのかもしれません。形式が自由なわりに、句から想像される事柄はずいぶんと限られています。それでもこの句にひかれるのは、動きそのものが、妙な実感を伴っているからなのです。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


October 10102009

 秋晴や攀ぢ登られて木の気分

                           関田実香

前は体育の日であった十月十日。東京オリンピックの開会式を記念して定められたこの日に結婚した知人の体育教師は、ハッピーマンデー制度で体育の日が毎年変わることになり困惑していたが、月曜に国民の休日がかたよるのもまことに一長一短だ。十月十日は晴の特異日とも言われているが、確かに十月の秋晴の空は、高くて深い。掲出句、よじ登られているのは母であり、よじ登っているのは我が子。〈八月の母に纏はる子は惑星〉と〈秋燈を旨さうに食む赤子かな〉にはさまれているといえばよりはっきりするが、一句だけ読んでも見えるだろう。吸い込まれるような青さに向かって、母のあちこちを掴みながら、その小さい手を空に向かって伸ばす我が子と絡まりながら、ふと木の気分だという。母とは、木のように大地に根を張った存在だ、などというのではなく、まさにそんな気分になったのだ。ただ可愛くてしかたないというだけでない句、作者の天性の感受性の豊かさが、母となってさらに、よい意味でゆとりある個性的な詩を生んでいると感じた。「俳句」(2009年8月号)所載。(今井肖子)


October 09102009

 無月かな佐助のごときひとが欲し

                           津森延世

まざまな「佐助」がいると思うけど、僕など佐助といえば猿飛佐助しか浮かばない。無月の夜に甲賀忍者佐助を思うのはよくわかる。なんとなく巻物を咥えて出てきそうな雰囲気があるから。しかし、作者がどうして佐助のようなひとが欲しいと思うのかが謎であり、この句の魅力なのだ。作者は女性だから、女として佐助のような男がいたらいいなと思っている。友人としてなんてつまらないから、恋人として。神出鬼没で身がかろやかで、手品どころか忍術を使える男。今でいうとおもしろくて飽きない男を作者はお望みなのだ。佐助より佐助が仕えた真田幸村の方が男としては上ではないかなどと思うが幸村の恋人だといざというとき自刃せねばならない。やっぱり佐助くらいでいい。美人の超人気女優が漫才タレントとくっつくのもその伝かもしれない。『新日本大歳時記』(1999)所収。(今井 聖)




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