ウィニー二審逆転無罪。当然だ。技術そのものは違法使用を回避できない。(哲




2009ソスN10ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 09102009

 無月かな佐助のごときひとが欲し

                           津森延世

まざまな「佐助」がいると思うけど、僕など佐助といえば猿飛佐助しか浮かばない。無月の夜に甲賀忍者佐助を思うのはよくわかる。なんとなく巻物を咥えて出てきそうな雰囲気があるから。しかし、作者がどうして佐助のようなひとが欲しいと思うのかが謎であり、この句の魅力なのだ。作者は女性だから、女として佐助のような男がいたらいいなと思っている。友人としてなんてつまらないから、恋人として。神出鬼没で身がかろやかで、手品どころか忍術を使える男。今でいうとおもしろくて飽きない男を作者はお望みなのだ。佐助より佐助が仕えた真田幸村の方が男としては上ではないかなどと思うが幸村の恋人だといざというとき自刃せねばならない。やっぱり佐助くらいでいい。美人の超人気女優が漫才タレントとくっつくのもその伝かもしれない。『新日本大歳時記』(1999)所収。(今井 聖)


October 08102009

 秋の人時計の中に入りゆく

                           松野苑子

場の大時計の窓からおじさんが顔を出し、「おーいこれに掴まれ」と飛行船から落ちそうな男の子にモップブラシを差し出したのは『魔女の宅急便』ワンシーンだった。実際に大時計にいる人でなく芝生に寝転んで遠方の人を何気なく眺めているとその後ろ姿が公園の時計へ吸い込まれてゆくように見えたともとれる。掲句から連想される情景は様々だけど、「時計」と言う言葉が具体物を超えて静かに刻まれる時間をあらわしているように思えるのは「秋の人」の秋が効いているのだろう。夏のあいだ時間を忘れて働いたり遊んだりしていたのに、はやばやと暮れてしまう一日に覚束なさを感じ、うっすらと冷たさを覚える風に自ずと内省的になってゆく。そう思えば道行く人達がそれぞれ見えない時計に入ってゆくように思えてちょっと不思議な心持になった。『真水』(2009)所収。(三宅やよい)


October 07102009

 一人来し松茸山や陽の匂ひ

                           玉川一郎

い松茸・味しめじ――と言われるように、松茸は食感もさることながら匂いがいのちである。松茸とりの名人は赤松林に入っただけで、かすかな匂いから松茸を探り当てると言われる。新鮮なほど匂いは高いわけだから、輸入物ではかなわない。『滑稽雑談』という古書に「松気あり。山中の古松の樹下に生ず。松気を仮りて生ず。木茸中第一なり」とある。茸は何といっても松茸が最高とされるけれども、私たち一般人の口にはなかなか届かない。子どもの頃、父が裏山からとって来た一本の松茸を、七輪でしみじみと焼いていた姿をはっきり記憶している。それを食べさせてもらったか否かは定かではない。「松茸の出る場所は親子でも教えない」と言われるが、観光の松茸狩りでもないかぎり、群がって松茸山へ入るということは考えられない。掲出句では、松茸を求めて呼吸を整え、嗅覚を澄ませているのだろう。首尾よく嗅ぎあてたかどうかは知らないが、松林にこぼれている陽の独特の匂いをまずは嗅ぎあてたのだろう。松茸山で松茸の匂いではなく、「陽の匂ひ」を出してきたところに味わいが感じられる。はたして松茸をとることができたのかどうかはわからないし、どうでもよいことなのだ。芭蕉の句「松茸や知らぬ木の葉のへばりつく」は、目の付けどころがおもしろい。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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